いずれ本のカテゴリーで紹介するが、書ききれない思いがあったのでここで少しお話したい。私達の「死」に関することだ。確実に訪れ、一度しかないそれを、後悔のないものにするために。
スピリチュアルな話ではなく、至極現実的な話だ。病院に丸投げして、自分の死を人任せにしたくない。
「死」が病院のものになってから、私達はそれを恐怖の対象としてきた。
病院は、病気を治すところなのである。悪いところがあれば、治そうとする。数値が悪化すれば改善しようとする。とういうところだ。
「死」とは、それが効かなくなった、最後の場所。逃げて逃げて、逃げ切れなかった場所という忌むべき場になってしまったのである。
かつて「死」は、家庭の中にあった。
「看取り先生」は、言う。
「食べられなくなったら、終わりだ。」これが、生き物の、死への最初のサインなのである。
しかし病院は、胃ろうだ点滴だ、と頑張る。結果、死は少しばかり遠ざかる。
食べる喜びもなく病を抱えたまま生きることを良しとするのは、「死」が恐怖の対象であるからに他ならないのではないか。
私達は、いつか必ず死ぬ。
食べられないという事は、その段階に入っているのだ。
そしてやがて飲むことができなくなり、衰弱して、枯れ木のようになって死んでいく。
これが本来あるべき「死」であり、自然な「死」であり、「苦痛のない死」であると、看取り先生は言っているのだ。
猫の話で恐縮だが、まさにその通りであった。
最初に看取った子は、それでも検査だ入院だと悪あがきをして少しばかり延命した。
数値が良くなればそれだけ具合も良くなるので、酷く苦痛があったようには見えなかった。
それでも、検査や入院がいっとき精神的・肉体的苦痛を与えただろうことは、想像がつく。
なので次の子は、特別何もしなかった。19歳という高齢だったことも、延命よりも平穏を優先する気にさせた。
結果、余命は先の子よりもずっと短かったが、どちらも家で、穏やかに看取ることができたというのが共通の最期であった。
たいがい動物の場合、病院側が「最後は住み慣れたおうちで」と帰してくれるからこのような看取りができるものだが、人間の場合、そうはいかない。
最後まで病院が手を尽くすことがあまりにも当たり前になり、家族も「家で看取る」という発想にならないのだ。
死が近くなると先に死んだ親や友人が現れるという「お迎え現象」は、圧倒的に在宅死に多いという。
看取り先生は、「肉体の衰弱と精神の衰弱のバランスが取れると現れやすい」と推測する。病院では現れにくい現象であることが、それを裏付けているようにも見える。
体は静かに死に向かい、心は平穏のまま閉じられていく。そんな感じだろうか。
「お迎え」を見た人は皆、穏やかだったという。こうして自分の死を少しずつ受け入れていくのだろうか。
だとしたら死が近い者にとって、治療よりも大切なものは自ずと見えて来る。
それが在宅医療だ。
看取り先生は、ガンで死んでいった。
宣告された余命よりもずっと長く生きて、数週間前までケンタやピザを何皿も食べ、タバコを吸い、最後は望み通り、枯れ木のようになり静かに逝ったとのこと。
62歳。
決して長生きとは言えないが、その人生のQ.O.Lを問いたい。