果たして人間には収集癖というものが始めから備わっているのか、それともこれは私の突出した個性なのか。
ずいぶん色々と手放し、諦めたものも多いつもりだが、依然溜め込んで動かないものがある。
収集だ。もうやっと分かったが、そこには「集める」以外の楽しみはない。つまりもう終わっているのである。
しかし減らせばそれは集合体ではなくなり、「集まっている」今だからこそ、それは最高の状態なのだ。これを見限るハードルは高い。
かくして依然それは、変わらぬ状態でそこにあるのだった。
時に、ダンナが突然、スパークリングワインのワイヤーキャップなどというものを集め出したのだ。
スパークリングワインのコルクが弾け飛ばないよう括り付けてあるワイヤーの下で、コルクを押さえつけているキャップだ。分からんでいい、それほど地味で不思議なものを集め出したという事だ。
牛乳のキャップや瓶の王冠に匹敵するもので、正直この私ですら理解できなかった。
しかしダンナは私の収集癖には比較的寛容なので、私も静観していたのだ。
とうとうダンナはそれを、ディスプレイした。先があったのだ。「収集」に先が。
「ンフフ」と満足げに見せてくれたものがこれ。
正直、私は驚いた。あのキャップがこんな形になるなんて、夢にも思わなかった。
これは、飾りたくなる。
そしてもっと集めたくなる。
そこで気が付いた。なぜ私のコレクションはこんな困りもの扱いになっているのか。
ディスプレイだ。
その多くはしまい込まれ、飾ってある物にしても、ただの陳列である。
集める目的だったとは言え、欲しいと思ったところから始まったのだ。どれも一度はときめいた物たちだ。
そのひとつひとつをこうして改めて見てみればまた胸がときめくが、陳列されてしまえばただの集合体だ。
ディスプレイの仕方が悪かったのだ。
もっとコンセプトを持たせ、その場所が一つの世界になるようなスペース。
私は急に、夢が膨らみ始めた。
例えばスーパーマーケットのスペースを作ってみたり、農場のスペースを作ってみたりしてはどうか。
もっと奥行きを出し、背景なんかも作り込む。
ジオラマ化だ。
そうか、足りなかったのは、世界観だ。夢がない。
それからしばらく私は、このコレクションのディスプレイ方法を考えるようになった。
上の画像は、コレクションのほんの一部である。
他に動物、キャラクター、乗り物、インテリア、まだまだ何倍ものコレクションが袋の中で眠っている。
これらそれぞれに世界を与えるのだ。
私は創造主になるのである。
しかし神ではない。
無理だ・・・・・・。
あまりの果てしなさに、匙を投げた。
一体私は何をしたいのか。
なぜか哲学的スイッチまで入り、収拾がつかなくなってしまった。
だからと言って、捨てる気にもならないのが困ったところである。
十年越しの、保留だ。
希望は捨てない。