思いがけない出来事、予想しなかったことなどが起こると、私達夫婦はそれを「にぼし飯」と呼んだ。
キリスト教信者が良く言う、「思し召し」をひねった言葉だ。単なる音の類似だが。
最初は良いことが訪れた場合に使っていた。「こ、これは、神のにぼし飯だったのだ・・・EE:AEB30」などと芝居がかってみたりして。
そのうち私達の中で、「にぼし飯」の存在は膨らんでいった。
それは、実在はしない。
それでも「にぼし飯」と考えることで、人生はずっと暖かいものになるのである。
「にぼし飯」は、進化した。
不意に訪れる出来事がたとえ悪いことであっても、私達はそれを「にぼし飯」とした。
この悪いことには、何か意味があるはずなのである。そしてそれは後々、私達にとって良い方に作用するはずなのである。
にぼし神がされることに、間違いはない。
そしてそれは必ず、私達にとって一番いい道なのである。
・・・と、若干宗教じみてきてしまったが、まぁ信じる信じないという程のレベルではない。そう「考える」と人生少しは楽に過ごせる、という思い込みである。
なので私達は何でもかんでも、にぼし飯にしてしまう。
もはや言葉遊びのようなものである。
昨日ダンナは、いつもより早く帰って来たのだ。
油断した、急いでご飯の支度をしないと。
米がないEE:AE5B1ダンナはもうこっちに向かっている。急いで買いに行かなくては。
ゲ、雨EE:AE5B1
米を買って帰ったら、すぐにダンナにメール。
あと10分で駅までお迎えだ。もうご飯の支度は間に合わない。
「・・・ということで、今日は先にお風呂に入ってもらって、その間にご飯作るから。」
車の中で、ダンナにそう伝える。
分かった、と言ってからダンナは少し考え、ボソッと呟くように言った。「・・・・・ニボシメシ・・・。」
最初私は、意味が分からなかった。
そして一呼吸遅れてその意図が伝わった時、私に衝撃が走った。
「にぼし飯!?」
その衝撃、ヘレン・ケラーが言葉の存在を知ったが如く。
それは本当に全く、思いもしなかった展開である。私はアホのように「にぼし飯!?にぼし飯!?」と連呼した。
ダンナは普段、ご飯を食べてからお風呂に入っている。
ダンナがご飯の前にお風呂に入ると言うことは、
それは、
飲む
ということを意味している。
躊躇はない。なにしろにぼし神の取り計らいなのだ。
ダンナなど調子に乗って「ご褒美だ」などと言っている。何のだ。
ということで、飲んでしまった。
明日休みだから、今夜も飲むんかの~。