人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

そにあって、そこにない存在

まだ結論は出ない。

先日チラッと書いたが、またしても娘ぶー子からSOSがあったのだ。

夜の9時ごろだっただろうか。

珍しく携帯から電話をかけてきた。

「また・・・、猫が・・・。」

また、と言うか、ついにきたか。

ぶー子が道端で死んでいる猫を見つけてしまったのは、これで3回目である。

1回目は、道端というか、道路の真ん中であった。

その時は市役所に電話したらしいのだが、目の前で清掃車に放り込まれた。

2回目は私に「どうしよう」と泣きながら電話をかけてきたのだが、私が準備をしている間にその近所の人が「埋葬しておいてあげるよ」と言ってくれたらしい。

その時のお話はコチラ

外で死んでしまった猫の行く末は、ゴミ清掃車なのか。

ぶー子は泣く。

猫は車にはねられた上に、みんなに気味悪がられて放置されている。

どうしたらいいのか。

だからあの時は、よし、分かった、今度から私を呼べ、と言ったのだ。

私だって胸が痛む。

何とかしてやりたい。

バスタオルか何かでくるんで抱いてあげればいい。

そう思ったのだ。

しかし、2回目の時は、まだきれいな状態の子猫だと言うので私が行く、と言えた。

今度は車にはねられたか轢かれたかした、大人の猫である。

正直、気が重かった。

可哀想だ。何とかしてあげたい。

しかし現実問題、私がこの手でその猫を動かす事ができるのか?

悲しい事に、猫はよく車にはねられて死んでいる。

私は遠くからその気配を感じると、そこを見ずに気付かぬ振りをして通り過ぎる様にしてしまう。

その理由のひとつは、やはりあまりひどい状態だと見たくない事と、もうひとつに、「死んでる猫を見て『かわいそう』って思っちゃいけないんだよ。『だったら何とかしてよ』って恨まれるよ。」と子供のころに言われたことがあり、それがすっかりしみ込んでいる事と。

卑怯である。

確かにそうなのだ。

可哀想、可哀想と言っても、何もしないのだ。正確には「できない」と言いたいのだが、もう同じことだろう。

「じゃあ、そっち行こうか?」

できるできないはともかく、行くだけ行くかと思ったのだが、

「もう・・・、前ほどじゃないから・・・、うん・・・。」

ぶー子も迷っていた。

もう以前ほど混乱してないから大丈夫、と言いたいのだろうが、やはり言い切れなくて曖昧に答える。

私も迷っていた。

だから曖昧な時間が流れていたが、突然「あっ!!」と悲鳴のような声を上げて、「今、車が・・・、ひどい!!」と言って泣き出した。

もうダメだ。

私達は決心できないのだ。

そこにいたら、もっとひどいものを見る事になる。

すぐに帰って来いと言うのがやっとだった。

車にはねられて、道端で死んでしまった猫。

それを知らぬ顔をして通り過ぎる人間達。

通り過ぎる事ができなかった頃もあったのかもしれないが、みんな慣れて行くのだ。

それが人間社会である。

そこに猫が死んでいるのに、それはないものと同じなのだ。

何度も轢かれてグチャグチャになって、最後にはゴミになる。

何て軽い命なのだ。

もしかしたら、命とすら認められない存在なのかもしれない。

私も「そこには何もなかった事にしなさい」と言ったも同然である。

人間として、人の親として、こんなに無力を感じたことはない。

あれから釈然としないまま時間だけが経っているが、私にできる事って何なんだろうか。

道端で、何よりも人の目を引きながら、誰にも関心を払われずに横たわっている猫を思った時、胸がはち切れそうになる。

私は卑怯で、人間のクズだ。