まだ結論は出ない。
先日チラッと書いたが、またしても娘ぶー子からSOSがあったのだ。
夜の9時ごろだっただろうか。
珍しく携帯から電話をかけてきた。
「また・・・、猫が・・・。」
また、と言うか、ついにきたか。
ぶー子が道端で死んでいる猫を見つけてしまったのは、これで3回目である。
1回目は、道端というか、道路の真ん中であった。
その時は市役所に電話したらしいのだが、目の前で清掃車に放り込まれた。
2回目は私に「どうしよう」と泣きながら電話をかけてきたのだが、私が準備をしている間にその近所の人が「埋葬しておいてあげるよ」と言ってくれたらしい。
その時のお話はコチラ。
外で死んでしまった猫の行く末は、ゴミ清掃車なのか。
ぶー子は泣く。
猫は車にはねられた上に、みんなに気味悪がられて放置されている。
どうしたらいいのか。
だからあの時は、よし、分かった、今度から私を呼べ、と言ったのだ。
私だって胸が痛む。
何とかしてやりたい。
バスタオルか何かでくるんで抱いてあげればいい。
そう思ったのだ。
しかし、2回目の時は、まだきれいな状態の子猫だと言うので私が行く、と言えた。
今度は車にはねられたか轢かれたかした、大人の猫である。
正直、気が重かった。
可哀想だ。何とかしてあげたい。
しかし現実問題、私がこの手でその猫を動かす事ができるのか?
悲しい事に、猫はよく車にはねられて死んでいる。
私は遠くからその気配を感じると、そこを見ずに気付かぬ振りをして通り過ぎる様にしてしまう。
その理由のひとつは、やはりあまりひどい状態だと見たくない事と、もうひとつに、「死んでる猫を見て『かわいそう』って思っちゃいけないんだよ。『だったら何とかしてよ』って恨まれるよ。」と子供のころに言われたことがあり、それがすっかりしみ込んでいる事と。
卑怯である。
確かにそうなのだ。
可哀想、可哀想と言っても、何もしないのだ。正確には「できない」と言いたいのだが、もう同じことだろう。
「じゃあ、そっち行こうか?」
できるできないはともかく、行くだけ行くかと思ったのだが、
「もう・・・、前ほどじゃないから・・・、うん・・・。」
ぶー子も迷っていた。
もう以前ほど混乱してないから大丈夫、と言いたいのだろうが、やはり言い切れなくて曖昧に答える。
私も迷っていた。
だから曖昧な時間が流れていたが、突然「あっ!!」と悲鳴のような声を上げて、「今、車が・・・、ひどい!!」と言って泣き出した。
もうダメだ。
私達は決心できないのだ。
そこにいたら、もっとひどいものを見る事になる。
すぐに帰って来いと言うのがやっとだった。
車にはねられて、道端で死んでしまった猫。
それを知らぬ顔をして通り過ぎる人間達。
通り過ぎる事ができなかった頃もあったのかもしれないが、みんな慣れて行くのだ。
それが人間社会である。
そこに猫が死んでいるのに、それはないものと同じなのだ。
何度も轢かれてグチャグチャになって、最後にはゴミになる。
何て軽い命なのだ。
もしかしたら、命とすら認められない存在なのかもしれない。
私も「そこには何もなかった事にしなさい」と言ったも同然である。
人間として、人の親として、こんなに無力を感じたことはない。
あれから釈然としないまま時間だけが経っているが、私にできる事って何なんだろうか。
道端で、何よりも人の目を引きながら、誰にも関心を払われずに横たわっている猫を思った時、胸がはち切れそうになる。
私は卑怯で、人間のクズだ。