ちょっと前に、占いにすがる精神科医の本の感想を書いたことがあるが、私も精神的に参るとつい、占いなんぞ読んでしまったりする。
結果が良くても悪くてもいい。
それが何かしら当たっている部分があれば、それに倣うことができるのである。救いである。
例えば、私は疲れていた。もう気力がない。どうしたらこの状況を打開できるのか。
そこで「今あなたは、ちょっとしたトンネルの中にいるような気分ですね。でも大丈夫。今はじっと潜んでいる時期。すぐに明かりが見えてきますよ。」などと書いてあれば、私は救われるのである。
悪い結果でもいい。占いは、気の持ちようなんかもちゃんと書いてあるものである。
「ちょっと長いトンネルになりそうですね。このトンネルは、もっと寒くもっと暗くなりますが、今はグッと我慢して、できるだけ大人しくしていましょう。」
「できるだけ大人しくしている」ということで、最悪は免れるのだ。
先を見通し、なすべきことを教えてくれる。苦しい時には、救いになるものだ。
しかしそこには、占いとの信頼関係がなくてはならない。それが、「今あなたは、ちょっとしたトンネルの中にいるような気分ですね。」である。
そうそうEE:AEB30
なんで分かったのEE:AEB2F
という信頼への導入剤が必要だ。
好んで占いを読む人は、当たっているように考えたくなる傾向にある。なので曖昧な書き方をされても「そんな気がしてくる」ものだ。
こう考えると、占いは人を明るい道へと導く救世主になり得る。ちょっとぐらい胡散臭くても。
このところ私は色々と悩んでいた。なので、占いを読むことが多くなったのだが、
「○○座は、自分のカラーを持ち続けて来た人。でも今は、ちょっと違う事をしてみたい時。他の人のいいと思った部分を真似してみて。」とはいかに。
まず、信頼導入部分の「自分のカラーを持ち続けて来た人」という説得力。誰にでも当てはまらなさそうに見えて、誰にでも当てはまりそうでもある。
そして「ちょっと違う事をしてみたい時」してみたい・・・かなEE:AEB2Fってか、具体性に欠けるので、そういうこともあるのだろうかなどと自分問う。
「他の人のいいと思った部分を真似してみて。」
人のふり見て我ふり直せ、という意味ではいいアドバイスなのだろうが、これはそれとはちょっと違う。
ちゃんと占いらしくピンポイントにアドバイスしているのだが、私の悩みとは全く違うところにあるのである。
私の悩みも、突きつめれば曖昧なものだ。
例えば今の仕事を辞めたい、などというハッキリしたものではなく、今自分は正しい道を歩んでいるだろうか、というようなもので(あくまでも例えばの話だ)、ここまで曖昧な悩みに対して曖昧に答える占いと、少しぐらい接点があっていいと思うのだ。つまり、少しぐらいどこかに救いのある返事があってもいいのではないかと。
ところがどの占いをいつ見ても、全く素っ頓狂で、夢さえ見させてくれない。
この数ヶ月、蠍座はノリにノッて花開く時期のはずなのだ。その開花を楽しみにしていたが、実際はその真逆をいっている。
「だって花開く努力をしてないでしょ」と言われてしまえばそうなのだが、だったら占いなんてちゃっかり逃げ道のある予言ではないか。
そう言いながらも、今日こそは私にシンクロする占いがあるんじゃないかとまたつい開いてしまうのである。
宗教が廃れない訳だ。
人間って、弱いな。