終えないゴミの日である。
わが町のゴミの分別は大きく分けて「燃えるゴミ」、「プラごみ」、「燃えないゴミ」となっている。
この他リサイクルのゴミもあるが、先の3つは市で指定しているゴミ袋で決まった日に出すようになっている。
そして、なぜか「燃えないゴミ」だけ月に一度しか回収してくれないので、逃すと結構やっかいな事になる。
なのに年末の回収日に出せなかったのだ。
年末。
大掃除で出た大量のゴミが今日まで2階の廊下をふさいでいた。
と言っても、娘ぶー子のゴミである。全て。
私は例年のように大掃除をしなかったので、大量のゴミなど出しはしないが、ぶー子が気まぐれを起こして大掃除をしたのだ。
ゴミ屋敷の廊下のように壁際にゴミ袋が積まれていく。
すぐにプラゴミの日は来たが、袋を見て私は絶句した。
全然分別されていないのである。
ぶー子は「プラを含んだもの」や恐らく「プラの側にあったのも」をじゃんじゃんプラゴミにしていた。
プラゴミなどと呼んでいるが、プラはゴミではない、再生するために分別しているのだ。
私は激しい怒りを感じた。
地球上に生きる一員として、私もぶー子も地球を守らなくてはならないのだ。
そのためにはルールがある。
自分さえ良ければいいのではない。
みんなが守らなくてはいけないのだ。
私はズルをするヤツやルールを守らないヤツは嫌いだ。
「ぶー子ォッ(怒)」
こんな簡単な分別まで手を抜きやがって、ゴミ屋を、地球を、バカにしている。
こんなものは出せない、次回の回収までにもういちど分別し直せと言い渡す。
しかしぶー子は燃えるゴミの回収の前日まで燃えるゴミの分別をし直さず、プラゴミの回収日を一度逃して延期させ、とうとう最後に残った燃えないゴミの回収が今日となった。
やれやれ、やっときれいになる・・・と燃えないゴミ袋を見ると、かなり悲しい事になっていた。
「燃える」でもない「プラ」でもないと判別されたものがここに無造作に詰め込まれていたが、まだまだ使えるものが一杯入っていたのだ。
多かったものは小さな収納アイテムだ。
ケース、箱、どれも可愛らしい輝きをまだ保っている。
見かねたダンナが多くを救い出し、「もう後は正真正銘のゴミだけ」という状態にしてもらったが、ドケチの私がそこからさらにいくつかのものを引っ張り出した。
大きな目覚まし。
ぶー子が「これが欲しい」と選んで買ったもので、たくさんの曲がはいっている。
きれいである。ちゃんと動いている。
時計、もうひとつ。
ダンナと外で食事をした時にお土産に買ったものだ。
まだ新しい。
動いてるよ~~(泣)
フォトスタンド。
可愛いです。
しかも中にラとミの写真が・・・。
何てひどい事を。
消しゴム、ちょっとしか使ってないよ!!
付箋紙、何でこんな丸ごと・・・。
さらに掘り進んでいくと、マニキュアやらペンやら小物がザックザク。
もう私は「ゴメンナサイ」と唱えて袋の口を閉めてしまった。
あれらが使えると分かってしまったら、全部救い出してしまうだろう。
捨てられないと片付かない。時には捨てる勇気も必要だ。
しかしその前に今一度、利用する方法はないかと考えられないのか。
やはりまだ使えるものを捨てるのは忍びない。
豊かになり物が溢れると、こういう事が起こるのだろう。
私も与える側として考えさせられた。
「シンドラーのリスト」のワンシーンを見たことがある。
確か第2次世界大戦中にドイツの収容所からユダヤ人を救い出す人の話だったと思うが、全員は救えないのだ。
彼はギリギリまで頑張ったようだが、限界はある。
私にだって限界はあるのだ。
もう使えるものを捨てるなよ、ぶー子。
アンタは我が家のヒトラーである。
廊下はカタがついたが、後は音楽室に集められたぬいぐるみ郡である。
可愛いぬいぐるみを捨てるなんて、鬼の仕業である。私にはできない。
彼らには海を渡って海外に行ってもらう予定である。
第2の人生を幸せに過ごして欲しい。