人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子56歳。

絶対に、大丈夫。

絶対。

「絶対」などというものは、ありえないのではないか。

私は「絶対」を多用する人間は、好きじゃない。

そういう人は、自分の話に信憑性を持たせるために、絶対と言う言葉を簡単に使う。

「あの人、どうせ××に決まってるわ、絶対。」

以前職場にいたパートさんは、人の悪口をいう時に良く「絶対」と言った。

「ぜ~ったい、そう!」ぜ~、のところで声を裏返らせて、より強調する。

見た訳でもない、想像で、あなたがそう決めつけたくて、言っているのだ。

だからそれをより強くするために、やたらと絶対というのである。

私達が知り得る事実なんて、ちっぽけなものだ。

その事実ですら、実は事実だと思っているだけで、本当のことなんて誰にも分かりはしない。

分かることは、自分の事だけだ。

その自分のことですら、「絶対」などと言いきれるものではない。

人は自分を過大、または過小評価する。

そして人は、変わる。

人は偽る。

そこに「絶対」など、ないのではないか。

例外的に、「絶対」があっていいと思う場面はある。

人を助けるための「絶対」だ。

「絶対に、大丈夫。」

「絶対に、信じている。」

「絶対に、裏切らない。」

結果的に嘘になってしまったとしても、それがその時その人を救うのなら、必要な「絶対」としてあっていいのではないかと思う。

それほど「絶対的」な言葉である、「絶対」。

それはもう、どうにも動かせない運命のような響きを持っている。

だから私は軽々しく使いたくないと思っている。

しかしその時私は「絶対、死ぬ。」、そう思ってしまったのだ。

瀕死のメダカを目の前にして、絶対に、死ぬと。

同じケースで次々死んでいった後である。

そして目の前のメダカは、息も絶え絶えの瀕死状態。

運命への反発とでもいう思いで、言葉にこそ出さなかったが「絶対、死ぬ」と。

なす術もなく、私は運命に対して怒っていた。

運命の、絶対的な運命に。

しかし、メダカは死ななかった。

これまではほんの数時間のうちに死んでいたが、弱ってから2日目に入った。

隔離した水槽で、何とか瀕死からは脱して、生きている。

「絶対」ではなくなった。

そもそも「絶対」ではなかったのである。

メダカは、死ぬかもしれない。

死なないかもしれない。

どちらも、絶対ではない。

なら、希望のある方を信じたい。