絶対。
「絶対」などというものは、ありえないのではないか。
私は「絶対」を多用する人間は、好きじゃない。
そういう人は、自分の話に信憑性を持たせるために、絶対と言う言葉を簡単に使う。
「あの人、どうせ××に決まってるわ、絶対。」
以前職場にいたパートさんは、人の悪口をいう時に良く「絶対」と言った。
「ぜ~ったい、そう!」ぜ~、のところで声を裏返らせて、より強調する。
見た訳でもない、想像で、あなたがそう決めつけたくて、言っているのだ。
だからそれをより強くするために、やたらと絶対というのである。
私達が知り得る事実なんて、ちっぽけなものだ。
その事実ですら、実は事実だと思っているだけで、本当のことなんて誰にも分かりはしない。
分かることは、自分の事だけだ。
その自分のことですら、「絶対」などと言いきれるものではない。
人は自分を過大、または過小評価する。
そして人は、変わる。
人は偽る。
そこに「絶対」など、ないのではないか。
例外的に、「絶対」があっていいと思う場面はある。
人を助けるための「絶対」だ。
「絶対に、大丈夫。」
「絶対に、信じている。」
「絶対に、裏切らない。」
結果的に嘘になってしまったとしても、それがその時その人を救うのなら、必要な「絶対」としてあっていいのではないかと思う。
それほど「絶対的」な言葉である、「絶対」。
それはもう、どうにも動かせない運命のような響きを持っている。
だから私は軽々しく使いたくないと思っている。
しかしその時私は「絶対、死ぬ。」、そう思ってしまったのだ。
瀕死のメダカを目の前にして、絶対に、死ぬと。
同じケースで次々死んでいった後である。
そして目の前のメダカは、息も絶え絶えの瀕死状態。
運命への反発とでもいう思いで、言葉にこそ出さなかったが「絶対、死ぬ」と。
なす術もなく、私は運命に対して怒っていた。
運命の、絶対的な運命に。
しかし、メダカは死ななかった。
これまではほんの数時間のうちに死んでいたが、弱ってから2日目に入った。
隔離した水槽で、何とか瀕死からは脱して、生きている。
「絶対」ではなくなった。
そもそも「絶対」ではなかったのである。
メダカは、死ぬかもしれない。
死なないかもしれない。
どちらも、絶対ではない。
なら、希望のある方を信じたい。