サブタイトルは「わが息子・脳死の11日間」というもので、医療現場のノンフィクションかな?と思ったのだが、25歳の若さで自ら命を絶った次男・洋二郎の話でショックであった。
作品は、大きく分けて「洋二郎の生きていた証」と「脳死について」のふたつの内容になっている。
洋二郎は10代のうちから精神を病み、亡くなる頃は自宅にこもっていた。
繊細で、普通なら何も感じずにいられるような事までも背負い込むあまりに、内向していく。
その思いは文章にこめられ、彼の遺した十数冊の大学ノートはビッシリと文字で埋め尽くされていたという。
ただ死んで忘れ去られていくことに恐怖を感じていた洋二郎。
そんな彼の生きていた証を、著者は残そうと思ったのである。
そして洋二郎は脳死と診断され、病院に運ばれてから11日でこの世を去る。
著者は仕事で、何度も向かい合ったことのある「脳死」という議題。
ところがこれが、わが身に降りかかるとまったく違うものが見えてきたのである。
「脳死」とは「死」なのか。
まだ心臓は動き、血色のいい肌には温もりがたたえられている。
「人々の営みは、人知れぬ犠牲によって成り立っている」という考えに傾倒し、洋二郎もひっそりと誰かの犠牲になることを望んでいた。
その思いを叶えるため、そして洋二郎の「死」を成就させるためにできることを、著者は考える・・・。
25歳というと、娘ぶー子といくらも変わらないが、非常に多くのことを考えていたことに驚かされる。
故に「生き辛さ」も壮絶で、必死にやり過ごしていた毎日を思うと胸が痛む。
「いつかこんな日が来るのを恐れていた」という著者は、脳死の11日間でその死を受容していくが、「死とは何か」を考えつつ、「脳死」への認識を変えていく。
私も脳死について深く考えたことはなく、持ってけドロボー的に臓器提供の意思表示カードを作ってあるが、逆に「脳が機能しなくなっただけで体は生きている」状態の家族から臓器を取り出せるかと考えた時、迷いが出てきてしまった。
脳死を「死」と判断することによって臓器移植のハードルは下がるが、残される家族の気持ちの問題にまで掘り下げられていない現状。
「受容」という時間と環境が作られることを、著者は強く提案している。
難しくて読みづらい部分もあったが、勉強になった。
ぽ子のオススメ度 ★★★★☆
「犠牲・サクリファイス」 柳田邦男
文春文庫