ラッキー腎不全シリーズはもう終わる予定だったが、最後に今の気持ちを書かせてもらいたい。
あれから3週間が経とうとしている。
あんなに恐れていた別れだったが、今は何事もなかったかのように平和に過ごしている。
この生活にラッキーがいた日があったなんて、まるで実感がない程だ。
もう悲しくもない。
ラッキーがいた日々。病魔に侵され、弱っていった頃。あの看取りの時。火葬。
こちらからそれに「アクセス」しなければ、辛くなるようなことはない。
無意識に、自衛しているのか。それは分からない。私だって悲しい思いはしたくないから、わざわざ「アクセス」もしない。
脳の海馬の奥深くに封印し、その事すら忘れてしまったようだ。
母を亡くした時もそうだったが、怖いほど、今は冷静である。
どうしてこんなことになるのか。考えてみた。
やはり母の時を思い出してしまうのだが、「やれるだけやった」、そこにあるのだろうかと最初は思った。
それもあるだろう。
しかしそこには、「死を受容する」という前提があった。
治そうと思って、「やれるだけやった」のではない。
少しでも安らかに送り出せるよう、死の手助けをしたのだ。
もしこれが、少しでもこの世に留まらせるための努力だったら、喪失に耐えられなかったかもしれない。
「死を受容する」。
これによって、もうずっと早い段階から、別れの準備はできていたのだろう。
介護をしながら、別れを始めていたのだ。
そして死は自然の流れとなって訪れ、私も自然の流れとしてそれを受け止めた。
もちろん、長い間一緒に暮らしたのだ。別れは辛く悲しかった。
それも不思議なことに、ラッキーがその体と一緒に私のそういう感情を持って行ってしまったような気がするのだ。
私が悲しみに暮れないように。
いささかおとぎ話だが、そう考えたくもなるような現象であった。
ところで、ラッキーと仲の良かった姉妹猫ミュウだが、果たしてラッキーの死を感知しているのかは分からない。
良くあることのようだが、容体が悪くなってからはまるで寄り付かなくなり、別れらしいものもないままである。
それでもずっと一緒にいた「何か」が欠けたことは感じるのか、とても甘えん坊になった。
ミュウの片割れの欠けた部分を埋めるように、今はダンナがとてもとても可愛がっている。
それを私は面白がって見ている。
3匹になってしまいました。