最初私はその声の主を、娘ぶー子だと思った。
声は一つしか聞こえなかったので、電話でもしているのだろうと思っていたのだ。
しかし、どうも違う。
声が幼いのだ。
たったひとりで呟いているこの子供の声は座敷童子の存在を思わせ、私はちょっと恐ろしくなった。
その時私は風呂の掃除を終えて、リビングに出たところであった。
ぶー子の姿は見えない、子供の独り言は聞こえてくる。
私は足音を立てないようにして、隣の和室に忍び寄った。
「かわいいねぇ。このねこちゃん、かわいい・・・。にゃーん、にゃーん、鳴かないなぁ・・・。」
姿は見てないが、どうやら隣の子供であった。
和室の窓を開け放してすだれを下ろしていたが、きっとエルがすだれの向こうに出ているのだろう。
「ねこちゃん、ねこちゃん・・・。」
男の子が囁く。
「日本語、喋れないよね?」
あぁ、これ、この純粋さを私たちはいつ無くしてしまったのだろう。
「おーい、大人しいね。女の子かなぁ?」
この和室はダンナが寝るのに使うだけなので、万年床に万年シャッターであった。
しかしだんだん蒸す季節が近づいてきたので、できるだけ窓を開けるようにしたのだった。
それでも開けるのは大抵9時過ぎで、こんなに早くシャッターを開けることなど滅多にない。
そこで彼の登校時間と重なったのだろう。
8時前である。
ところで何でぽ子が8時前に風呂掃除を終えるなどという奇跡を起こしたのかと言うと、ゲームをやりたかっただけである。
恐るべし、ゲームの力。
メンテナンス中でできなかったが、モンハン。
「かわいいね、かわいいね。」
これを大人が一人で言ったら犯罪じみているが、あぁこの子はなんていい子なんでしょう。
だって、そこにいるの、エルでしょ?
確かめてもいないが、確信している私はえこひいきの親馬鹿である。
私は和室とリビングの境い目でなぜか中腰になり、少年の囁きに耳をそばだてた。
「あれ?伸びた~~。何で伸びるの??」
バリバリッと音がする。
きっと網戸に立ち上がっているのだろう。
エル、頑張れ、登るのだ!!
スパイダー・キャットであるところを見せれば、腰を抜かすかもしれないぞ。
しかしエルは登らなかったようで、「僕ね、もう学校行かなきゃならないの。帰ってきたらまたそこにいたらいいな。」
と言って走り出した。
少年、なんて愛おしいのだ。
この純粋無垢なセリフ。
そこへエルを褒められた喜びも重なって、私のハートは大きく収縮していた。
ギャラリーのいなくなった和室に入ると、そこにはトドのようにぶー子がダンナの万年床に転がっていた。
ヒッ、これ、見られたかな。
私だと思われたらたまらんぞ、こりゃ。
「ここにね、かわいい猫がいたんだよ。」
お!!戻って来た!!誰か連れてきたぞ。
その時はもう私もエルもリビングに来ていたが、慌ててエルを和室に放り込んだ。
「おかしいなぁ、いないなぁ・・・。」
いますいますッ。
エル、ファンサービスなさいッ!!
「いなくなっちゃった・・・。」そう言ってふたつの影が動いていったが、彼が連れてきたのは母親であった。
無愛想で苦手な隣人だが、あぁ、彼女にエルを「かわいい」と言わせてみたかったものだ。
4時に仕事を終えて家に戻ると、私はまず和室のシャッターを開けた。
空気を入れ替えたいのもあるが、あの子をガッカリさせたくなかったのもある。
案外子供なんか、猫のことなどすぐに忘れてしまうものなのかもしれないが、私はもうエルをキャットショーにでも出すような気持ちになっている。
「あ。」
シャッターを開けたら、ちょうどそこには朝の少年がいた。
出かけようと思ったところなのか、自転車に手を掛けたところであった。
「こんにちは♪」と声をかけて、彼の緊張をほぐしてやる。すると、
「猫、いないの?」とすぐに切り返してきた。
ハイハイハイハイ、いますよ、イキのいいのが♪
私は「ちょっと待っててね。」と言って、すっ飛んでエルをフン捕まえて連れて来た。
「ちょっとちょっと、おかーさん!!」
すだれを目一杯開けたので、またしてもトド化していたぶー子が丸見えになった。
一応学校へ行って帰ってきたのだが、私と同じで隙あらばこうして寝ているのだ。
それには構わず「ほら♪」と網戸越しにエルを差し出した。
「かわいい♪」
売れっ子アイドルの娘を持つ親の気持ちとは、こんな感じであろうか。
しかし、「もう1匹、いたよね。」と言われてしまった。
ん??知ってたの??
どっちの方だ?ラか?ミか?
「お腹が白かった?」と聞くと「うん。」と言うので、私はご丁寧にリビングに行って、ミを捕獲してきた。
そして誇らしげに見せると今度は、「まだいるの?」と間髪入れずに聞いてきた。
なんだ、ラの存在もミの存在も知ってたのか。
ハイハイ、連れて来ますよ、今。でぶっちょい奴を。
「ほら。」と見せると次は「もういないの?」ときた。
手品じゃねーんだよEE:AE4E5
結局彼の本命は分からずじまいである。
友達が来たようで、じゃあね、と去っていったのだった。
しかし私はきっと、明日も朝早くから和室のシャッターを開けることだろう。
子供だけが言える、透明な言葉を聞きたいのだ。
「クソガキになるまでの束の間の」そう付け加えてぶー子と笑ったが。