原爆の日や終戦記念日がある8月は、メディアなどで戦争の話を目にする事が多くなる。
我が家ではたまたま宅配レンタルで戦争映画が続けて来たこともあり、思いを馳せることが多くなった今日この頃である。
つくづく平和な時代に生まれて良かったと思う。
戦場に駆り出されるのはもちろん、訓練なんかも私にゃ無理だ。こんな非力ではついていけず、上官には殴られて同志には白い目で見られたりするんだろうな。
それでも「はい喜んで」の精神で過酷な訓練に耐えるとか、部活のランニングですら置いて行かれた私には、絶対に無理だ。そういう人はどうしてたんだろう??
仮にだ、その時代に生まれた私が運動能力に長けていたとする。
襟のところにカッコイイ星なんかつけて、部下を連れて戦場へ赴く。
先日見た映画はガダルカナルの戦いだったが、戦闘も地獄、生き残るも地獄だ。
嫌だなんて言えないのである。
死んだ方がマシなんていう世界なら、特攻にでも志願して確実に死んだ方がいいと考えたかもしれない。
女子供だったらどうなのか?
空襲とか原爆とかEE:AE474
逃げてる間に親とはぐれた子供とか、どんな気持ちだったのかと思うとたまらない。
戦闘機の機銃で撃たれた人を見たという人の話、目の前で親や兄弟を殺されたという話。全く珍しくないのである。戦争とは、そういう世界なのである。
中でも、敵が上陸して民間人が直接巻き込まれた沖縄は悲惨であった。
子供の泣き声で敵に気づかれるからと自分の手で殺した母親の話が、私の中で最悪である。母親が最悪なのではない。戦争が最悪を作り出しているのだ。本当に胸が痛む。
恐らくこの地球上に戦いのなくなる日は、来ないだろう。
動物は、戦う生き物である。縄張り、生存競争。どんな形であれ、戦いは常に存在する。
ただ、生き物の中で「取り引き」ができるのが人間だ。バランスが崩れれば戦いに発展しかねない危ういものではあるが、人間にしかできない方法で、人間だけが戦いを放棄することはできるのではないか。
今私がやっているゲームは、それぞれ自分が陣地を持ち、それを守りつつ敵の陣地を攻撃していくオンラインモードがある。
攻撃されればそれが誰だか分かるようになっていて、報復することができる仕組みだ。これにより、泥沼になるケースもあるようだ。
抑止力として、核を配備することが可能となっている。
このゲームを作った小島監督は、プレイヤー全員が核を廃棄した時のイベント(ゲーム上での)を用意していた。
このイベントは過去に数回発生したとのことだが、実際にはどれも不正からの誤発生で、現在まで核は一度も廃絶されていない。
戦争のなくなる日は、いつか来るのだろうか。