ロシア軍がキーウから撤退したという。
停戦に向けての撤退ではないというような話もあるが、いずれにしろキーウの町がウクライナに戻ったのは進歩である。
しかし残された町は、変わり果ててしまった。
商店、住宅、施設、建物が破壊されたばかりでなく、そこにあった当たり前の日常をも奪われてしまったのである。
まだロシア侵攻直後のインタビューで、攻撃にあった町の住民がこう答えていた。
「先週まで、夜にはパブで飲んだりして楽しく過ごしてたのに。」
私達の週末と、何も変わらなかったのだ。
前兆がなかった訳ではないのだろうが、「まさか」という思いだったろう。
まこと理不尽としか言いようがない。
昨日たまたま観た映画が、戦争映画だったのだ。
第一次世界大戦下のヨーロッパにおける最前線を潜り抜ける伝令の話だ。
戦場のおびただしい遺体には尊厳も何もなく、変わり果てた姿を晒していた。
その遺体ひとつひとつに人生があり、想いがあり、待っている人がいて、無事を祈る人がいたはずである。
本来、死とは、安らかなうちに旅立つべきもののはずだ。
恐怖、苦痛、無情、そういった中で死んでいく無念。無残な姿となって道端に捨て置かれる無念。
それを知ることもなく、無事を祈る家族。
戦いが終わっても、もとには戻らないのだ。
私はこの侵略戦争が一刻も早く終わることを願うが、終わったところで残るものは「失ったもの」ばかりであることを思うと、言葉もない。
「いつも戦争を始めるのは政府で、その尻拭いをさせられるのが兵士」と、昔フォークランド紛争でイギリスと戦ったアルゼンチンの兵士が言った。
そしてその犠牲になるのは民間人だ。
撤退したキーウに残された遺体のうち、この戦争を左右する人が一体何人いたというのか。
停戦を願いつつ、新たな現実に直面するだろう彼らを思うと心が痛む。
戦争のない世界なんて、理想論でしかないのだろうか。
戦場で戦いたい人が、戦場で逃げ惑いたい人が、この世界にどれほどいるというのか。
指令とか使命とか、そんなものを取っ払ったら、いくらもいないはずである。
自分は動かずに駒を動かずだけの指導者がいる限り、戦争はなくならない。
そしてその指導者には、個々の嘆きや苦痛、苦悩、悲嘆などといったものが響かないのである。
響いていては、駒は進められない。
自国のため、という名目の下、指導者は駒の進退だけを見る。
その駒ひとつひとつに宿るものに、思いは及ばない。及ばせないことが、良き指導者となる。
今、私の膝の上では猫が眠っている。
グンと体を伸ばし、すっかり体を委ねて。
猫ですら約束された安らぎが、ここにはある。
どうか一刻も早くウクライナに平和が戻りますよう。
願わずにはいられない。