尾崎豊。
センセーショナルな歌詞と、訴えかけるような、或いは崩れ落ちるような歌唱。
少年少女の埋もれていた感情をさらけ出したその曲は、若い世代に多くの支持を得た。
私もそんな中のひとりだったはずだが、残念なことに、今はもうそんな気持ちになることはできなくなってしまった。
こういうのを「大人になる」というのだろうか。尾崎流に言えば「つまらない大人」に。
盗んだバイクで走り出す。夜の校舎窓ガラス壊して回った。
抑制されたストレスを、彼は歌の中で発散してくれた。
しかし一体私達は、なぜそんなに荒ぶっていたのだろう。何に対して。
それが若さと言ってしまえばそこまでだが、あのような形で開花した世代。
無茶苦茶にぶち壊してやりたい。そうかと思えば何もかもどうでもいいような投げやりな無気力。
それでも本当はその中に、訴えたいことがあった。
それは「受容」ではなかったのか。
むしろ抑圧され、厳しい時代を生きたのは大人達であった。それ故に、次の世代にも抑圧を強いる。
しかし私達は厳しい時代にいなかった。
豊かになり、自由があり、バイクを盗んだり夜の校舎の窓ガラスを割ったりする余裕があったのである。
そんなことは、彼らにとって甘えでしかない。そして実際私たちは、甘えたかったのである。
尾崎の歌は「わかってくれ」「こんな自分を受け止めてくれ」という叫びに聞こえる。
私は話を聞いて欲しかった。理解しようとして欲しかった。
「どうして」と聞いては来ない。「こうだ」と言う。
「どうして」と聞くときは、反論する準備があるときだけであった。
これが私達世代の抑圧であり、それが爆発したのがあの頃だったのである。
それももう、昔の話だ。子供だったなぁと思う。
尾崎が生きていたら、今どんな曲を作るだろう?
こんな昔を振り返って苦笑いするような歌が、聞きたかったものだ。