SNSを開き、マナーモードをオフにした。少しずつだが、日常を取り戻している。
亡くなった母とはそもそも一緒に住んでいた訳でもないし、ここ数年疎遠であった。
そういう部分では、喪失感は少ない方だろう。
ただ、「失っていく」という過程が強烈で、またそれによってのしかかってきた自分のしでかした過去の罪悪感が重い。
常に何かが引っかかっていて、突然電池が切れたようにすべてが止まってしまう。
「死」について、考える。
諸説あるが、死後の世界は解明されていない。
臨死体験なども聞くが、それについて私は懐疑的だ。
恐らく「死に一番近いところ」に行った貴重な体験で、嘘はないとは思う。
しかし、私はもうちょっと科学的に考える。
人間の体は死が近くなると、その恐怖や苦痛を和らげるために麻薬物質のようなものを出すのではないだろうか。
花畑、再会、光。
戻って来た人は一様に、「恐怖や不安はなく、むしろ幸せな気分に包まれる」という。
この世を離れて、未知の世界へ行くのだ。誰だって、そうあって欲しいものである。
これは「願望」が作り出した人間の合理的なシステムか、宗教的な刷り込みのような気がしてならない。
もちろん、宗教を否定する気はない。これはこれで、非常に良くできたものだと思う。
何かにすがってそこに救いがあるなら、また生きる上でそれが自分の指針になるなら、重要な役目を果たすことだろう。
しかし私は無宗教者だ。
天国や三途の川の向こう、果ては先立ったペットに会える虹の橋などに救いはない。
では、人は死んだらどうなるのだろう。
私の考えでは、「魂」はある。
それは「誰」という固定された魂ではなく、Aさんだった過去もある、Bさんだった過去もある「ある魂その1」という存在で、死ぬことによってそれに戻るのではないかと。そう考えると、輪廻転生はあり得るかもしれない。
肉体は消耗品だ。劣化もするし、壊れもする。
そうして維持できなくなった肉体を離れると、「ある魂その1」に戻るのである。
その時、色んなことを思い出すんじゃないかな、死後の世界のこと。
これは仏教の考えだったか。
この世は辛いことに耐える修行の場で、「死」ということは必ずしも悲しい事ではない。
この世のすべての苦痛から逃れ、解放される喜ばしい出来事でもあると。
死を悲しむのはこの世に残された私達が、その人を失いたくないという「執着」であるにすぎないと。
母の死に顔は、本当に安らかであった。
麻薬物質の作り出した世界であろうと、母は会いたかった誰かに再会できたはずだ。
そして、安らかに旅立って行ったことだろう。
それを悲しむのは、残された私の執着だ。
潔く送り出し、いつかまた会えることを信じる。
それが死に際の人間の脳内システムであろうと、麻薬物質の作り出す世界であろうと、そんなものはどうでもいい。
私も安らかな気持ちで会いたかった人に迎えられ、安らかなうちにこの世を去ることだろう。
何となく、そんな風に考えられるようになった。
少しの間の別れだ。
どうやら私には、まだこの世で修業が必要らしいから。