夜が怖くなくなったのは、いつの頃だったからか。
そもそも私は霊の存在を信じていたので(恐れていた、と言う方が正しいかもしれない)、夜が怖かった。
人々が寝静まってしまった夜。
誰もいない夜道。
一人の夜。
夜中に目が覚めた時。
それが深夜2時から4時の間だったりしたら、地獄であった。
不安のあまりに聴覚が敏感になり、普段拾わないような音まで拾ってしまう。それがまた、想像を掻き立てて、恐怖心を膨らませる。
ふと気が付くと、いつからかそういう思いをしていなくなっていた。夜は、ただの夜になっている。
一体私は、何を怖がっていたのか。いもしない、ありもしない、そんなものに怯えていたのではないか。
さすがに「霊はいない」と言い切ってしまうのはまだ憚れるが、そんなような気がしてきたことは否めない。
怖がるべきものが、なくなってしまっていたのだ。
母が死に、姉妹猫が相次いで死に、それなのに何も起こらなかった。
巷に溢れる不可思議な現象のようなものは、私にも、まわりの家族にも、起こらなかった。
母が死んだ後とミュウが死んだ後にノック音を聞いたが、あれだけでは確証が持てない。いくらでも理由付けができてしまうのだ。私の中では神聖な体験だったが、「そう思いたいから」と言われてしまえばグゥの音も出ない。
そして彼らの死を目の当たりにして、魂の存在を強く信じるようになったこと。
霊ではなく、魂。
この世に残ってまとわりつくようなものではなく、昇天して次の世界にいくもの。
だからもう死者には会えないし、霊などと言う存在もない。
母であった魂は、純粋な、ただの魂へと戻って行ったのだ。
この世のどこにも残っていない。
この世のどこにも、死者は残っていないのだ。
心霊現象を信じないダンナとは、飲んで良く激論を交わしたが、悔しいことに何となく気持ちが分かるようになってしまった。
難癖ばかりつけよってと思っていたそれは、「信者」が見ようとしなかった隙を暴くものだったのかもしれない。
可能性を否定して、不可思議な現象としてしまう。それは偶然が引き起こした事か、恐怖心、または希望がそう見せたことだったりしなかったか。
私はあのノック音を、誰もいない場所で鳴ったからと「母の」「ミュウの」音とした。それはたまたま母の新盆であったりミュウの火葬している間だったりしたことから、そう思いたくなったのではないか。
正直、まだそんな風には考えたくないが、それだけの「隙」があることは確かだ。
死とは、私が思っていたよりももっとドライで素っ気ないものなのかもしれない。
さて、このように何となく心霊現象に対する考え方が変化してきたが、次は「魂」だ(笑)
これまた独自な世界観が確立されつつあり、今度はこっちでダンナと議論するようになった。
まぁ隙だらけですから、これもまた平行線でございます。