母は、とても苦しんで死んだ。
最終的にはモルヒネで「意識」と引き替えに楽にはなったが、もう見ているこちらが辛いので引導を渡したようなものである。
恐らく死とは、このような耐えがたい苦しみの先にある。最後の試練だ。
私は「死」そのものよりも、この最後の試練が恐ろしくて仕方がない。
色んな形の死があるが、多くが苦しみや痛みの果てにある。
正しく生きたからと言って、安らかな死が訪れる訳ではない。そこは不平等だ。
死に方なんて運だと思うと、投げやりな気持にもなる。
しかし、腹を決めなくてはならない。私達にはさらに「その先」があると思うからだ。
「その先」で、最後まで頑張ったことを誇れる方がいい。
いいんじゃないか、という希望的願望だ。もっとハッキリ言うと、見返りを期待している(笑)
じゃなくては、辻褄が合わないではないか。苦しみ抜く覚悟を決めて真っ当に生きた意味とは。
そもそも生まれ落ちたからには、生き抜く覚悟を決めるべきだったのだろう。
生きる意味なんて、知りようがない。
だからといって無意味だとは、あまりにも短絡的過ぎる。
意味は、死んだ後に分かるのだろうと思うことにした。
なぜこんな苦痛のある世の中に生まれてきたのだろうかと考えた時、ふと気が付いたのだ。
もしかしたらこの苦痛ですら「また味わいたい」と思うのではないか。
平和で何もかもが悟り尽された世界。そこには疑問や試練などない。
つまり、退屈なのだ(笑)それが何十年、何百年、もしかして永遠に続くなら、この世の苦痛ですらまた味わいたいと思うのではないか。
まるでロールプレイングゲームだ。
クリア報酬は、天国。
プレイ前に、ちゃんと最後には帰って来られることが分かっているのなら、また出掛けて行きたくなるのかもしれない。
どんな苦痛も悲劇も、過ぎ去ってしまえば懐かしいものになるのだろう。結局この世はゲームなのだ。苦痛も悲劇も、魂の遊びだ。
実はこの世は「リアル」なんかじゃなくて、あの世が作り出した一時的な世界なのだ。
などという考え方をすると、「罪」の概念が軽くなってしまう。
「せっかくだから前世では100人ブッ殺してやったぜ、ハッハッハ!」なんていうことがまかり通ってしまう訳で、でも実際この世の中にはそういう人間がいる訳で、このへんどうなっちょるんかいと神に問いたい。
この罪が来世に反映するとすれば合理的だが、何とも人間チックな考え方である。
いずれにしろ、この世とはまた戻りたくなる世界なのかもしれないと思ったら、離れがたくもなってきたのだ。
この世は自分が思っているよりも、もっともっと素晴らしい世界なのかもしれない。そして自分が思っているよりも、もっともっと貴重な体験をしているのかもしれない。
だからと言って、今さら私の生き方は変わらないが。←神様がガッカリした瞬間
「永遠の0」という特攻隊員のことを描いた映画があった。
私はあまり感銘を受けなかったが、その中のシーンで非常に印象的な言葉があったのだ。
特攻が決まり、もう今日明日には出撃となった少年のセリフだ。
もう死ぬと思ったら、目に映る全てがとても美しい、といった言葉だったと思う。
死を目前にして、もう二度と戻れない世界の美しさが見えたのかもしれない。
この世にしかない美しさ。
あの世に花は咲いているのだろうか。太陽は昇るのだろうか。鳥は鳴くのだろうか。川は流れているだろうか。
そう考えた時に、この世の美しさ、儚さを知る。
だからと言って、今さら私の生き方は変わらないがなEE:AEABF
ほとほとクズだが、生まれたことに感謝はしたい。
そんな気持ちになった51年目のぽ子である。