人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子56歳。

紙上の墓標

昨夜、一冊の本を読み終わった。

寝る前に少しずつ本を読むようにしているが、毎日きちんと読むこともたくさん読むことも、なかなか難しい。

故に、読み終わるまでには時間がかかっている。

 

昨夜、一冊の本を読み終わった。

最後に数ページの「あとがき」があったが、眠いので読むかどうかをちょっと迷ったのだ。

ページをめくると「書き忘れたことがある」などという書き出しだったので気にかかり、読むことにした。

 

精神科医である著者は、自己を分析するために非常に多くの本を読んできたようで、文中に何度も引用される場面があったのだ。

そのジャンルも広く、探求心の深さと迷える心理状態を物語っているようであった。

このあとがきの終わりも、エピグラムとして小説の一文を引用して締められていた。

そしてそれに続く括弧書きの中に、母の名前を見たのである。

 

母は、翻訳家であった。

主にミステリ小説の翻訳をしていたが、その数は最終的には100冊近くに上っていたらしい。

かくいう私は全く興味がなかったので、ほとんど母が訳した本など読んだことはなかった。

去年母は死に、しばらく感傷に浸ったあとは、驚くほど綺麗に気持ちに折り合いをつけることができていた。

それはあまりにも不思議なほどで、時々その現象をここに書きたくなることもあった。

今は、母が生きていた実感がない。

思い出は、作り物の映画か何かのようである。

それは単なる事実として残っているだけで、懐かしさなどの感情が伴わないのである。

 

私は娘として、決していい生き方をしてきてはいなかった。

母が死に、取り返しがつかなくなったことで、そんな自分に向かい合えなくなったのかもしれない。

後悔すれば、私の人生は全否定される。

つまり、逃げているのかもしれない。

相変らず私は、母が嘆くような生活をしている。

だから私はまだ、母に顔を向けられないのかもしれない。

 

偶然にもこの著者も、母親と似たような関係にあった。

「扉の頁の裏側に<亡き母へ捧ぐ>などと記す趣味はない」と書いてあるその後に、私は母の名前を見たのである。

突然現れたその名前は、まるで墓標のようであった。

私がそっと葬ろうとしていたものが、亡霊のように現れたのである。

 

立派な人だった。私と違って。

こんな私でも愛せよと、ずいぶん試すようなことをした。

母はそういった手段には、厳しかった。

母亡き後こうしてその名を目にした時、立派な母に酬いれなかった不甲斐なさを感ぜずにはいられない。

 

昨夜は良く眠れなかった。