5月14日。
あれから一年が経った。
キリッと締まった空気の中に、暖かいものを感じるようになる季節。
その新しい爽やかさが、母との最期の日々を思い出させた。
目を閉じて、微動だにせず、空っぽになった母。
悲しい気持ちと折り合いがつくと、その不思議だけが取り残された。
母は体を残して、どこへ行ってしまったんだろう。
行き先は分からないけど、そのどこかでいつか会えると思っている。
今日は、母の話をさせてもらいたい。
昭和2年に生まれた母は、早くに父親を亡くした中に戦争を経験し、苦労も多かった人生だったと思う。
長女として母親に頼られ、強くたくましく生きていった。
しかしその確固とした強さは、「新人類」などと呼ばれた私のような生ぬるい世代の人間には強過ぎた。母もまた、私のような生ぬるい人間を受け入れられなかったことだろう。
私はもっと、甘えたかった。認めて欲しかった。理解を示して欲しかった。
母にとって恐らくそれは「甘やかし」にしかならず、譲歩になると考えたことには徹底的に拒絶した。
同情を何よりも嫌う人であった。弱い人間もまた。
実際母は、何でもできる人だったし、努力を形にして結果を出して来た人だと思う。
ネットで名前を検索すれば、旧姓、結婚してからの姓でも、たくさんの実績を見ることができる。
自分の親がそのような人間であったことは、恵まれているだろう。
しかし私は、そのカケラほども引き継ぐことができなかった。
私は「徹底的な拒絶」に対して、徹底的に戦った。
幼稚な手段だ。自堕落に生きることで、対抗したのだ。
母の死後、ふたつ年上のいとこから、私が荒れていた頃に母が「あの子は弱いから、断れなくて振り回されているんじゃないか」と心配していたと聞いた。
私は本当に驚いた。母が私のことを心配していた?
私に対しては徹底的に「じゃあ勝手にしなさい」だったのである。
母にとって、心配している姿を見せることは、弱さを見せることにもなっていたのかもしれない。そんなそぶりすら見たことがない。
優しくして欲しい時ほど、冷たかった。
それが母の、「教育」だった。
こうして、すれ違ったまま10代を過ごし、私は19で家を出た。
母の教育から卒業してからは、衝突もなくなった。
たまに会うから、優しくなれるのだろう。
すっかり歳をとってからも、母はいつも食事を作って待っていてくれた。
事情があり、そんな母を疎遠にしたので、最後の3年間はどうしていたか分からない。
父や兄から聞いて、今その穴埋めをしているところである。
私もこんなんだったし、父とも不仲だったし、決して幸せだったとは言えない人生だったと思う。
それでも母は、「まぁ楽しかったわよ。」と言うだろう。
嘆き悲しむのは、母の性に合わない。
グズグズ恨み言を言うような人間ではないのだ。
そういう意味では、母は幸せだったのかもしれない。自分を不幸な人間にしない。
そんな母だったから、母の許に私や父のような人間を送り込めたのしれない。
やはり私の母親があの母だったことには、感謝しなくてはならないだろう。
いつか「そのどこか」で再会したら、精一杯抱きしめて欲しい。
お母さん。