人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

納棺式

今週のお題「これって私の地元だけですか」

 

さて、今週のお題も困った。

「これって方言だったの?」「よく行くスーパーが全国展開されていなかった」「冠婚葬祭で『うどん』を食べるのって私の地元だけ……?」など、あなたの「これって私の地元だけですか」に関すること。

というお題だが、私の地元は東京の新興住宅地であり、その土地特有のものがないのだ。今住んでいる場所も実家に近く、ギャップはほとんどない。なのでこれまでカルチャーショックというものを感じることはなかったのである。

なので自分の実家ではなくダンナの実家での、ちょっとした珍しい儀式のことを書いてみようと思う。土地柄なのか、家柄なのかは分からない。ダンナのおばあちゃんの納棺式である。ちなみに場所は、東京の田無市(今は西東京市というのか)だ。

今から30年ぐらい前のことだっただろうか。もうこういったことをやっているところは、少ないのではないだろうか。昔はこのように、故人は自宅に戻って最後の時を過ごしたように思う。

 

当時私達夫婦は、20代後半ぐらいだったか。

義祖母は、長男であるダンナの伯父の実家に安置されていた。

読経やらなんやらがあったかどうか、その辺の記憶はない。

みんなで布団に横たわる義祖母を囲み、その儀式は始まった。

大きめのおちょこに日本酒がたたえられ、これをひと口飲んでは隣の人に回していく。日本酒の回し飲みだ。

もうすでにこの頃から私達夫婦は酒好きで毎晩飲んでおり、意外な場所での酒の登場に図らずもときめいてしまった。

「酒だ。」ダンナが小声で言う。予期しなかっただけに、染み渡る味である。ひと口というのがつらいところだ。

まぁこの辺まではまだ分かるが、次に回ってきたのが豆腐だったのだ。これまた神妙に、少しばかりを口に含んで隣に回していく。

「つまみだ。」ダンナが言う。

納棺式である。このような深刻な場面では、笑いへの感度が非常に敏感になる。最近になって「失笑恐怖症」という症候群があることを知ったが、まさにそれである。恥ずかしながら、葬式の読経で笑いが止まらず、泣いたふりで誤魔化したこともあった。

いっそ納棺の宴にしてしまえばいいのに、中途半端な出現であった。まぁだからこうして今でも「奇妙な儀式」として覚えているのだろう。

その後、義父兄弟も亡くなったが、納棺式はなかった。

奇妙な儀式だったが、廃れゆく儀式の最後に関われたことは有意義だったと思う。

葬儀が画一化されて、こういうものが無くなっていくのは残念だ。

しかし失笑恐怖症としては、救われている。