カネダのことを思い出した。
カネダは小学校3、4年生の時に同じクラスだった子である。
女の子だが、女の子であることを感じさせない地味で、全く洒落っ気のない子であった。
目立たなかったがちょっと変わった子で、クラスの中での扱いも「あぁ、カネダじゃあねぇ」という感じの、イジメの対象にすらならない打ち捨てられた存在であった。
それでも私は、意外と良く喋った方だと思う。
変わった子だと思いながらも、そんなに嫌いではなかったのだ。
ただちょっと変に大人びていて、そこが私には怖かった。
彼女は何でも見通せているようで、自分が小さく感じる。
私は自分が小さく見えないように、何でも彼女に同調してさも分かったような顔をした。
担任を小馬鹿にし、はしゃぐ同級生を冷めた目で見る。
私は彼女がウンザリしたように毒づいているのを、何度も聞いた。
自分自身を良く見せようとする気も、全くなかった。
卒業アルバムの自画像は不細工な書きなぐりで、その下のニックネームの欄には「でこ」と書かれていた。
カネダはおでこが広かったが、それを隠すようなこともせず前髪を片方にパカッと分けていたので、ことさら目立っていたのだった。
変わったカネダだったが、今思うと不思議な子である。
あるとき音楽の授業で、全員立って笛を吹いていた時のことだ。
突然一人が笛を吹きながら、グスングスンと泣き出したのだ。
その子の足元には、小さな水たまりができていた。
小学生である。男どもが「おもらし!」「こいつ、もらした!」とはやし立てる。
そんな中カネダは自らぞうきんを取ってきて、「違う!これはただの水だから!!」と拭き出したのである。
とっつきにくい変わり者だったので、恐らく多くのクラスメイトの印象は「あぁ、カネダね(苦笑)」であろう。
しかしカネダは、しっかりとした自分をもっていた。そんな周りの印象など、気にもしなかったはずだ。
そしてカネダは、正しい目を持っていた。
その目の正しさが、周りを冷めた目で見る由来になっていたのかもしれない。
そう思うと、周りは間違ったものだらけである。カネダはなかなか笑わなかった。
そんなカネダを作った「家庭」に、触れる機会があったのだ。
外で遊んでいて、子猫を拾ってしまった時の事だ。
困り果てて、友達とその辺の家を一軒一軒「この子を飼ってくれませんか」と頼んで回ったことがあった。どこも素っ気なかった。
そのうち偶然カネダの家にもあたり、出て来たお母さんにも同じように頼んでみたのだ。
するとお母さんは「可哀想に」ととても親身になってくれ、結局飼えはしなかったのだが、にべもない他の家と違ってとても優しかったのである。
これがカネダを産んだ人である。
私達はやっと当時のカネダの精神年齢に追いついたが、そんなカネダの現在はどうなっているのだろうか。
カネダも恋をしたか。
しないだろうな(笑)
そんな俗っぽいことに身を落とさず、どこか遠い国で人助けでもしているんじゃないだろうか。
その顔が、笑顔だったらいいなと思う。