え~、何だか祝ってちゃんみたいになりそうだったので書かなかったが、先日48回目の誕生日を迎えたのだ。
SNSをフル活用しているので、ありがたいことにリアルタイムでお祝いの言葉をたくさんいただいた。
活用している限り友人登録数とは増えるもので、メッセージ数も今年は過去最高、みなさんの短い一言が集まって大きなプレゼントとなった。
幸せ過ぎて怖い。
人は、手にしたことのない幸せがやってくると、失うことが怖くなるものである。
そしてやがて来る不幸に怯えるのだ。
幸せは永遠に続かない。
いつかこの日のことを思い出す時は、悲しい気持ちで思い出すだのだろうか。
神はなぜこんなプレゼントをよこしたのか。
正直嬉しい反面、恐ろしくて仕方がない。
そして今年は、2通の手紙を貰った。
両方ともバンド関係からで、ひとつは娘ぶー子と同世代の女の子たち。
可愛らしい文字で母親ほど年齢の離れた私に書かれたメッセージは、それこそぶー子が書く言葉と良く似て、親しみのこもったものであった。
またもうひとつは家族ぐるみでお付き合いさせてもらっているファミリー全員からのメッセージだ。
子供達は中学生と小学生。
親であるお二方からのメッセージも、しょっちゅう一緒に飲んだりしてるのに、文字になっただけで改まった感があり、ちょっと照れくさいようなこちょばゆいような。
この手紙の破壊力は凄まじかった。ヤバい、これはマジで、人生最後のハピネスになるんじゃないか。
そこで私は思ったが、「手紙」というのはそれだけで何かが違う。
指先で入力した文字と違い、手書きの文字に「言霊」が閉じ込められているような気がするのだ。
時にかなり前に、捨てられない絵葉書を消費するためにジャンジャン出すことにしたのだが、案の定「ジャンジャン」は「細々」になりつつも、決まった一人には出すようにはしている。
彼女も気まぐれに返事をくれることがあり、ある日ポストに明らかに普段見ないようなハガキを見つけるととても嬉しくなる。
それこそ部屋に入ったら他の荷物は全部ほっぽって、まずそれを読む。
お互いに他愛のない話だが、ここにも「言霊」だ。とても暖かい気持ちになる。
手書きの手紙の威力を思い知った。
字が下手なんであんまり書きたくない気持ちがあったが、これは上手い下手ではない。幸せのデリバリーである。
そんな小さな幸せが欲しい方は、住所を教えてくれれば絵葉書消費を兼ねてお送りするEE:AEACD
絵葉書は子供の頃から意思に反して集まってしまった(集めていたわけではない、捨てられないうちに集まってしまったのである)ものが主なので、絵柄はしょーもないのが行く覚悟を。
久しぶりに思い出したので、ちょっと書いておくかEE:AEACD