母とのバスツアーが中止になってしまった。
人数が足りなかったらしい・・・EE:AE4E6
梅雨時のド平日。当然といえば当然だったか。
なので、新たなツアーを探さなくてはならない。
昼になると母は「冷やし中華セット」と一緒にうちに来て、それを食べながら新たな予定を立てたのだ。
結局、決まらなかったが。
それでも母がいたのは4時間だ。本当に良く喋る。
久しぶりに会えて嬉しいのか、単に喋りたいことがたまっているのか、それすら感知する以前の問題で口が勝手に動いてしまうのか、まぁここは数少ない孝行どころだ、聞きに徹する。
3時を回ったあたりで、「あら、もう帰らなくちゃ。」と腰を上げかけたのだが、その時何だったか音楽の話をしていて、母のピアノの事に話題は移っていたところであった。
すると「そうそう、そういえば、」と母は忌々しそうに座り直し、「何であんな井桁(イゲタ)4つとかにするのか。」と憤慨した。
井桁EE:AE4E6つまり♯のことだが、ピアノを弾くにあたって、黒鍵が多いと覚えられずに困るというのである。
そりゃ、分からなくもない。私だって困っている。
しかし母が言いたいのは、「調(つまり「キー」だ。いちいち言い回しが昭和初期なのである)なんかハ(つまり「C」だ)だろうがニ(つまり「D」だ)だろうが何だって良かろうものを、わざわざ井桁を4つもつくような調にするのはなぜなのか」という事であった。
「何だって良かろうものを」(笑)
母が今弾いているのはバッハと思われるが、天下のバッハに向かって「何だって良かろうものを」とは。
一週間前なら、何かがおかしいと思っても私は反論しなかったが。
しかしだ。
偶然にも前回の合唱の練習で、キーの話を学んだばかりであった。
結構斬新な話だったので誰かに言いたくて仕方なかったのだが、こんなところでチャンスが来るとは。
その時、講師であるもっきゅんは、キーの異なる3つのコード(和音)を弾いたのだ。
不思議なもので、同じドミソでもキーが違うと印象が変わる。
生命と宇宙を歌う「COSMOS」のキーは、幻想的な響きを持っていた。
その後にCのキーを聞いたときの脱力感ったらないよEE:AEB64
Cはアカン。
例えるならCはナスとかキュウリで、Eはズッキーニとかパプリカである。
「ちゃんとそれぞれの調にはそれぞれの響きがあるんだよ。と、指揮者の一色さんが言ってたよ。」
説得力を出すために、わざわざ「もっきゅん」のことを「指揮者の一色さん」と言って引っ張りだして来る。
しかし母は納得しない。
じゃあ聞けば分かるから、と音楽室へ誘う。
もう帰ろうとしていたところ、這うように四つん這いになって階段を上って音楽室に来る母。
こういうことは白黒はっきりしないと気が済まないタチなのである。
昔、切った野菜の幅が何ミリだ、いやこれは何ミリだ、と言って、定規を持ってきたこともあった。
果たして母は、納得しなかった。なんで!?明らかにE、響きが違うでしょ!?
もう一度Cを弾いて、その馬鹿さ加減を強調したが、「音の高さが違うだけだ」と言い張り、「なんで井桁を4つもつける必要があるのか」と迫る。
母の「なんで」は、音の響き云々ではなく、「ピアノが弾きやすい調にしないのは何でなのか」という、もはや言いがかりである。
「そんな事言ったら、世の中みんなハ長調に・・・EE:AE5B1」
「そうよ、弾きやすいようにしないのはおかしいわよ。」
母の言い草はだんだん熱を帯びてくる。
思い出した、実家にいた頃は良くこのパターンで最後にはケンカになったものだ。
別にケンカを売っているわけではないようだが、ガンコなのでラチが開かないのである。
「ほ、他の楽器が弾きにくくなるかも・・・EE:AE5B1」と言ったらやっと少し考えて、「そうね、色んな楽器があるものねぇ。」と少し大人しくなった。
個人的には納得のいかない丸め込み方で、こっちが消化不良である。
しかし、母が帰ってからちょっと不安になってきたのだ。
もしかして私は雰囲気に飲まれて「そんな風に思えた」だけだったりしないか?
私は人の話を聞くときに、できるだけ肯定的に聞くようにしている。その方がお互いのためだからだが、ちょっと待て。冷静になるのだ。
30年前にマルチ商法にハマッた時のように、私は洗脳されて浮かれているということはないだろうか。
試しに、C以外のキーの曲を、Cで弾いてみることにする。
できるだけ、格調高い曲がいいだろう。
ピアノピースから3曲を選んだが、やはりどれも練習曲のように聞こえて、どこか間抜けであった。
そして、たまたま選んだ3曲が3曲とも、黒鍵のキーであった。
やはり「調独特の響き」はあるのではないか。
バッハやベートーベンが、適当に考えてたまたまそのキーだったとは考えたくない。
井桁が少ないほど間抜けに聞こえるのは、考えすぎかもしれないが。