昨日の話の続きになるが、というか、昨日はこっちを書こうと思っていたのだが、ダンナの猫家事のことだ。
ちなみに、緑の猫じゃらしはまだ見つからない。
猫は水を飲む。
昔はずっと牛乳を飲むと思っていたが、基本は水だ。それどころか、牛乳はあまり良くないらしい。
知らなかったので実家にいたころはご馳走として時々あげたり、こぼした時に舐めさせたりしていたが。
なので、水は常に出しておく。
以前はお皿に入れていたが、あまりにも私が取り替えないので、猫たちは新鮮な水を求めて風呂場や洗面台に殺到するようになってしまった。
そこで買ったのが、ウォーターファウンテンなる循環式水飲み器である。
水道と繋がっている訳ではないのでこれも放置すれば鮮度はどんどん落ちていくが、フィルターを通して循環するので、汚れがたまりにくいのである。
そう。
水道と繋がっている訳ではないので、放置すれば鮮度はどんどん落ちていくのである。
つまり、完全放置を決め込む訳にはいかないのである。
一体理想の掃除頻度はいまだに分からないが、過去に私が洗ったのは3回だ。
一度買い換えたが、それから軽く1年は経っているはずだ。
それなのに水飲み器は、いつもきれいである。
私が洗ってないのにきれいなのだ、猫が洗っているのかと思っていたが、ダンナであった。
洗っているところをほとんど見たことがないので、休日に私が朝寝を貪っている間に洗っているようである。
そりゃあすまないねぇ、と素直に思ったが、そこまでである。
自分でやろうという考えすら、浮かんでこなかった。
面倒だからだとか時間がないだとか、そんな理由すらなかった。
考えつかなかったのである。ひどい。
ところがある日ふと、「感謝されたいなぁ」と思ったのだ。
家事能力、生活能力、全ての能力において低すぎる、このままではいけないと思ったのである。
私はダンナから感謝されることは可能なのだろうか。
しかし、感謝を要求したくはなかった。
あくまで自然に感謝されたいと思ったのである。
なので、水飲み器を黙って洗うことにしたのだった。
ダンナが洗っていた日は土曜か日曜と思われたので、金曜日に洗ってみた。
つまらない仕事だが、感謝されると思うとやりがいがでるものだ。
さぞかしダンナはやりがいがなかったことだろう。
きれいになった水飲み器には、すぐに猫が寄ってきた。
そうか、ダンナの原動力はこれか。
ところで私は、水飲みを洗ったことを黙っていられなかった。
なぜなら、言っておかないと土曜か日曜にまたダンナが洗ってしまうからである。
こうして私は感謝されることに成功した。
しかしそれも、2回までであった。どうしても習慣にならないのである。
先に3回と書いたが、その3回目が先週の金曜日であった。
気まぐれで思い出したのである。
前回よりかなり時間が開いていたので、こいつはちょっとしたサプライズになるぞ。
今回もなかなかやりがいがあった。
私が使っている歯間ブラシを使ったら細かいところの汚れが取れ、大発見だ。これもダンナへの土産にしてやろう。
すがすがしい気持ちで水飲み器を元に戻したが、どういうことか、動かない。
循環式水飲み器なのだ、動かないということは、皿と一緒である。困る。
いや、困るのはこれが皿化することではなく、これが「壊れた」ということだ。
壊れたのか?
落としもしない、折れもへこみもしない、親切心で洗っただけなのに、なぜ動かない?
ダンナが帰ってきた時に謝ったが、動かないんだから壊れたんだろうという、シンプルな結論であった。
猫たちは動かない水を見て、呆然としている。
あぁ、早く買い換えなきゃ、でもどこが壊れてるんだろう??
そのまま話は進まず、二日ほどが経った。
猫は観念して、動かぬ水を飲んでいた。
しかし二日ほど経ったら、動いているのである。
ダンナが直してくれたのだった。
どうやって直したのかというと、「洗った」のだそうだ。
私が洗って壊したモーターを、ダンナが洗って直したということだ。
訳が分からないが、どうやらきちんと洗えていなかったようで、汚れがへんなところに入ったか何かしたのだろう。
「ゴミがいっぱいでてきたよ。」とダンナは言った。
多分、今後私が洗っても感謝はされないだろう。
また別のことを考えよう。