やってみたくてもできない事があった。
興味本位といえばそうだが、実験といえばもうちょっと聞こえはいいだろう。
ぽ子の溢れる探究心からくるものである。
人間は知性を持つ動物である。
疑問が湧き、試し、結果を見て結論を出す。
こうして人類はここまで発展してきたのだ。
で、私のかねてからの疑問だが、猫の嗅覚についてである。
まぁ犬でもハムスターでもインコでもいいのだが、試すことができる動物がたまたま猫だからである。
彼らは非常に優れた嗅覚を持っているが、果たして「くさい」という観念を持っているのだろうか。
例えば腐った食べ物を出せば恐らく彼らは臭いだけでNGを出せるだろうが、それは「くさい」からではなく、「食べられない」という風に判断しているのではないかと思う。
人間は逆だろう。
くさいから止めておこう、である。
これで何度救われたか。
回りくどい言い方をしたが、私がやりたくてできないで来た事とは、「猫の顔に屁をかます」という事である。
やはり臭いから嫌がるのだろうか。
いや、臭くても害はないから本能的にスルーするのでは。
いやいや、屁はガスである。
いやいやいや、ガス=有害なのか?
しかし、猫が飼い主の屁をかぶって死んだという話は聞いた事がない。
というか、飼い猫に屁をかぶす不届き者がいないだけかもしれないが、いずれにしろ死にはしないだろう。
そんな危険な気体を尻から出しているのなら、ペットを飼う際に何か注意があるはずである。
便秘気味の時は、ペットの側での放屁に注意とか。
屁自体には危険はないだろう。
しかしこれを試すためには、猫の顔に尻を向けて、屁をひらなくてはならない。
想像して欲しい。
何という傲慢な行為なのか。
屁をひられるのが人間であれば、尻を顔面に向けられた時点で危険と屈辱を感じるはずである。
しかし猫にはそういう感覚はないので、愛しい飼い主様のお尻が目の前に来ただけである。
そこへ屁をかますなんて、だまし討ちに近いものがある。
かと言って「では、いきます。」と宣言しても、通じはしない。
彼らは純粋無垢なその姿で、微動だにせず次の行動を待つだろう。
信頼。
無知であるがゆえの安心感。
そこへ屁をひるのか、ぽ子よ?
知性ある人間だからこそ、やってはいけない事があるのではないか。
エルは2歳になった。人間だと25歳ぐらいであろう。
しかし相変らずチビの甘えん坊で、ご飯を食べるときなど側で見ていてやらないと食べない事がある。
そんなエルを見守りながら安心して食べさせられるように、エルのご飯場は膝の高さぐらいの踏み台の上である。
食事の時間になるとまず、うるさく催促する姉さん猫2匹にご飯を出し、最後にエルのご飯場の踏み台の上にご飯を置く。
エルは大人しくお座りして、首を伸ばして待っている。
今日も私はそのようにして姉さん2匹にご飯を出し、エルのご飯を皿に入れた。
それを持って振り返るとエルはちゃんと踏み台の上で座って待っていたのだが、私はある事に気がついたのだ。
踏み台に乗ってお座りしているエルの顔の高さは、私の尻の高さと同じだったのだ。
私はもう一度、前に向き直った。
今、まさにエルの顔は私の尻の前にある。
今ここでかませば、「屁が出たところにたまたまエルの顔があっただけ」という事にはならないだろうか。
私はわざわざエルに向けてはいない。
しかしそんな都合よく屁が出るか。
出るのである。
便秘大王ぽ子・サンタイザベルの尻は、いつでも「窒素50%、水素30%、炭酸ガス15%で、酸素、硫化水素のほか、悪臭のもととなるメタンガス、インドール、スカトール」が発射可能な状態であった。
あなたは、愛猫に屁をかませますか?