晩ご飯。
記念日でもなく、特別なものもない、普通の晩ご飯。私は時々、気まぐれにランチョンマットを敷く。
自分で選んで買ったランチョンマットはちょっと洒落たものが多いが、母のランチョンマットは普段使いにすることが多い。
母の手作り、というと聞こえはいいが、ハギレか何かで作ったただ四方を縫っただけの布だ。それぞれ大きさも違う。柄も、なんかオドロオドロした謎の柄。
それでもこういうものを敷いただけで、テーブルは華やぐものだ。ただの布というだけあり、簡単に洗濯できるのもいい。
気まぐれにこれを、テーブルに敷く。
作った母は、もういない。
不思議な感覚だ。
私の母であり、たくさん思い出のある人はもういなくなり、何の変哲もないランチョンマットが残っているのである。
何とも母らしいランチョンマットだ。「こうやって何でもランチョンマットにしちゃえばいいのよ。」か何か言っていたような気がする。
本当にそうだよね、何でもランチョンマットにしちゃいたいよ。捨てられないハギレを抱え、私もそう思う。ミシンがあれば、私もいびつなランチョンマットを作るのだろう。
私は母の断片。ランチョンマットと共に、残された。
人はいつか消滅し、モノが残される。
そのモノは目に見えないその人を纏い、こうして存在している。
普段使いのこのランチョンマットは、実は一番特別なランチョンマットなのだった。
小さなものでいい。私には何が遺せるのだろうか。
そんなことを考える。