人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

自由という名の混沌

犬が我が家に来て、そろそろ一ヶ月。

ある程度予想はしていたが、忙しくなった。

 

つくづく実感する。猫の世話は楽である。放っておいても勝手にやってくれるのだ。

お互いに干渉せず、欲した時だけすり寄っていく関係だ。ドライだが、面倒がない。

しかし犬には、「散歩」というノルマがある。準備から犬ウエアを脱ぐところまで、1時間程度かかっている。一日2回なので、約2時間だ。

それでも犬は、全身で大喜びしてくれるのだ。期待には沿うよう努力してくれるし、精神的な成長というものが分かりやすく見て取れる楽しみもある。

なので「仕事」という程の苦痛はないのが救いだ。

しかし2時間は正直、イタイ。

 

時間の使い方が下手なくせに、予定通りに物事が進められないことがストレスになる性格なのだ。ただでさえやるべきことがこなせないでいる中での2時間を持っていかれるのは、非常に厳しい。

なので一時的に、「朝、一日のスケジュールを組む」ということをやめて、思いつくがままに過ごすようにしている。

 

自由だ。

スケジュールに縛られずに済むというのは、こんなにも抑圧感がないものなのか。

やらなきゃならないことがあるには変わりがないが、それらが待ち構えているような圧迫感がない。

私は思いつくがまま手当たり次第に、いわゆる家事タスクをこなしていった。

自由だ。・・・しかし、何なんだろう、この不安定な感じは。

 

目に付いたことを、とにかくやっていく。しかし見渡せば、目に付くものばかりである。

こっちをやっている間にあれが気になり、あれに手を付ければこっちを忘れ、こっちに戻る間にまた別のそれが気になって来る。

カオスだ。

スケジュール化という統制がなくなり、様々な「やるべきこと」が革命の如く噴き出したのである。

しかし止まる訳にはいかない。

カオスに飲まれ、もはや私はロボットのようにただ動いていた。動いていれば、進むのだ。もう何がどうなど、さっぱり分からん。動いて進めるのみである。

 

やはり自由とは、自分をちゃんとコントロールできる人間が手にするべきなのだろう。

私は「時間がない」という現実から逃げたかった。しかし逃げたところで時間がない現実は変わらないのである。

 

そろそろまた、朝のスケジュール習慣を取り戻すとするかな・・・。