「オレさぁ、もうダメんなっちゃったんだよ。」
父が時々口にするフレーズである。
できていたことができなくなるジレンマ。
父は今、それに抗うように最後の挑戦をしているところだが、思うようにいかないみたいで、時々憤る。
思えば母も、そうだった。
父よりも10歳年上の母には、もっと早くその波は押し寄せていた。
「できない」「もうダメ」、そんな風に言いながらも毎日ピアノを弾いたり運動したり頑張っていたが、そのうち諦めたようで何にも関心を示さなくなってしまったと聞いた。
あったものが失われていく、それが老いだと思い知る。失われ続けるのが、老いだ。
それがどんなことなのか、実感を持って恐怖するようになったのは、私も歳をとったからだろう。
私ぐらいの歳なら、もうすでに衰え始めている年代である。しかし幸か不幸か、私はそれを感知することなくこの歳になってしまった。
衰えがない訳ではない。単に鈍くて実感が湧かなかったのもあるが、そもそも衰えるほど溜めたものがないのだ。努力というものをした試しがほとんどないので、失うものもないのである。
言うならば、小さな努力と挫折の繰り返しで、無くして惜しいほどのものがない。
その上しょっちゅう失敗ばかりしているので、できないのがデフォルトだ。できないのが当たり前であり、そこに衰えなどと言う要素を見ることはないのであった。
ところがそんな私でも、いよいよ焦りを感じ始めたのだ。ここでも書いたが、「歌」である。ありがたいことに、歌唱力についてはボイトレの先生のお陰でまだ発展途上だ。伸びる余地すらある。
しかし、曲を覚えられなくなってきたのだ。
感知してしまうと、それは歴然としていた。私はもう、若くはない。今まで以上に努力しないと、歌すら歌えないのである。
この劣化は、父や母の嘆きに繋がっている。私もこれからどんどん、失われていくのだ。
できていたことが、できなくなる恐怖。「こうなるはずだ」という理想は少しずつ遠くなり、それはやがて叶わなくなるだろう。
すでにそれは始まっているのだ。残された時間は、短い。
もう欲張ってはいられない。
日々、やりたいことを無計画に楽しむような贅沢は、若者の特権である。
自分は何をしたいのか、厳選してそれに打ち込まないと、このままでは何をも成し遂げず終わってしまう。
自分は何をしたいのか。
問いかける。