私達は、「慣れる」という素晴らしい能力を、神から授かっている。
初恋に破れた時の胸の痛みは、記憶というよりも今や「記録」として残るだけであり、同じ痛みを体感することはない。
一緒に暮らしていた猫が死んだ時の胸が切り裂かれるような悲しみも、遠い思い出である。
それでいい。
忘れ去った訳ではない。
こんな痛みをそのままいつまでも持っていたら、誰も身が持たないだろう。
私は辛い事があったとき、「いくらなんでも10年後に同じ辛さではない」「5年でも」「1年もないな」「1ヶ月もあれば」「早ければ3日か」、そう思ってやり過ごすようにしている。
程度の差はあれ、時が来れば何でも慣れてしまうものなのである。
やっかいなのは、「慣れ」はネガティブな事柄に対してだけ働く訳じゃないというところである。
私は自分の能力にそぐわないベースを無理して買ったが、以前のように情熱的に練習しているかといえば、恥ずかしながらそうでもない。
連日深夜まで楽しんでいたモンスターハントも、今では数日に一度程度である。
忘れた訳ではない。
しかしそれは出会った頃の輝きを失い、どんどん新しい出会いにその座を譲っていくのである。
あなたは奥様を、ご亭主を、愛してはいるだろう。
しかし出会ったときの情熱などもうなく、それは「家族」としての愛へと形を変えているのではないか?
そう、失くしたのではない。
形を変えたのである。
情熱も悲しみも、そのまま抱えていけるものではないのである。
私たちのキャパシティは狭い。
その中に上手く収まらなければ、壊れてしまうだろう。
「慣れ」は、そのために神が私たちに備え付けてくれたスキルなのである。
掃除、しなかったEE:AEB61
久しぶりに二度寝をして、起きてもやる気にならず、テレテレと過ごしてしまった。
恐らくこれ以上頑張るとキャパを超えて、私が壊れてしまうのだろう。
掃除ハイは「元気があるとき掃除」に、形を変えたのである。
今週もあと二日。
もういっか。
飲もう。
私のキャパは狭いのである。