人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

過去は日刊雑誌

忘れてしまいたい過去。それはいつまでも私を苦しめる。

忘れたいけれど、忘れてしまってはいけないような呪縛。

それは、その原因が自分にあるからだ。

人にされたこと、不可抗力、そういったことも忘れ難いが、どこかコミックのように思い返しつつ、怒りや悲しみを楽しむことができる。

ところが自分のしでかしたこととなると、シャレにならない。

どうしてあんなことをしてしまったのか。

愚かで恥ずかしく、ウギャーと叫び出したくなる。実際に「あー!!」ぐらいは言ったこともある。

しかし忘れてはいけないのだ。二度と繰り返さないために。

こうして私は過去の呪縛を抱えて生きることになった。

 

そんな中、先日ネットで見た記事を見て気づきがあったのだ。

私はその失敗があるから、今の自分となっている。少なからず学んだものがあるはずだ。

あの過去も含めて、今の自分なのである。あれがなかったら今の私は、「これからあの失敗をするかもしれない未熟な自分」であったはずだ。

失敗をしない人生は失敗、という言葉に「どっちにしろ失敗か!」と笑っていたが、今となっては妙に説得力がある。

まぁ分かるが、過去が苦痛であることには変わらない。

そんな過去との向き合い方の話だ。件のリンクをざっくりまとめてみた。

news.yahoo.co.jp

 

一方で、私は、多くの思い出は心を苦しめるものだと考えています。

過去には嫌な記憶が無数にあります。思い出して不愉快になったり、「なぜ自分はあんなことをしたのか」と自己批判したりすることも多いのです。

思い出すことの9割は嫌なことだというのが実際ではないでしょうか。楽しい記憶は、現世の競争、憎悪、嫉妬などから離れたものに限定されるのです。

 

楽しい思い出にふけるのもたまにはいいでしょうが、むしろ、嫌な記憶を思い出さないようにするほうが、過去とのいいつき合い方になると考えています。

あれこれ思い出しすぎないのが、過去とのいいつき合い方。

喜ばしい思い出は記憶の1割以下なのです。

 

■「なぜ、あんなことをしたのか」は限りなく増幅する

「明日を耐え抜くために必要なものだけ残して、あらゆる過去を締め出せ。」医学者 ウィリアム・オスラー

他人からひどいことをされれば、嫌な思い出になります。しかし、嫌な思い出ができる原因は、他人にだけあるのではありません。

 「若気(わかげ)の至りで人の心を傷つけてしまった」「あんなに変なことを言ったり、したりした自分が恥ずかしい」といった自己原因も多いのです。だから、よけいに苦しいのです。

 人間は、最初は楽しいことを思い出しても、すぐに「そういえば、あいつは俺を裏切った」などという不快な記憶が呼び覚まされることがしばしばです。

 そこに、「自分はなぜ、あんなことをしたのか」という自己批判がからみます。こうして、嫌な感情が限りなく増幅していくのです。

このような心理に対して、「過去を変えることはできない。だから気にしないほうがいい」とアドバイスする人がいます。しかし、過去は変えられないことなど、誰でも知っています。それでも気になるのが人間なのです。

多くの先人が「過去を忘れなさい」と言っていますが、私も本当にそうだと思います。

 

 江戸時代の禅僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は、若い時に激しい修行で結核になり、死ぬ寸前になった時に吐いた血痰(けったん)が壁を垂たれていくのを見て、悟ったといわれます。

 その盤珪禅師は、「記憶こそ苦のもとなり」と言われました。

 

先ほど言ったように、私たちは楽しかった昔を思い出しても、他人のひどい言動や、自分自身の恥ずかしい行為などを次々と思い出し、最終的には不愉快になることが多くあります。

 私たちはよいことばかりを思い出すことはできず、屈辱や失敗などの嫌なことを連鎖的に思い出すようになっているのです。

 まさしく「記憶こそ苦のもと」であり、「もの思わざる」ことが一番なのです。また、楽しい過去も結局は嫌な思い出につながるので、「不思善(良いことも思わず)」が大切になってきます。

自己原因による嫌な思い出も、消去の対象になります。

 「なぜあんなことをしたのか」と恥じ、悔いる過去はまだいいのです。もっと激しい罪悪感を伴う過去が、多くの人にあります。

 そういう過去を消そうとしている人、ちょっとでも頭をかすめると無理にでも抑え込もうとする人、決して他人に話さない人は少なくないのです。

 

■過去の失敗があるから、今の私がある

若い時に間違いを犯すことはもちろん避けられません。しかし、間違うことによって、脳は正しい社会活動を営めるように育っていくのです。

 私はほかの人たちと変わっているところが多く、まわりの人にずいぶん嫌な思いをさせただろうと、よく思います。

 誰も気がつかないような間違いもたくさん犯しました。それどころか、実際に間違ったことをしていなくても、「もし間違いを犯していたら、どんなことになっていただろう」などと心配したものです。

 そのように、私は過去の出来事について、いつも恥じ入り、自分はダメだと自己批判してきました。

 しかし、今は違います。過去の出来事は、脳が完成し、よりよい生き方ができるために避けられなかったことだと思うようになりました。

 過去の失敗があるから、今の私があります。過去の失敗がなかったら、今の私はないのです。

 親の目を盗んでお金を使ったこと、自己主張が強すぎて嫌われたであろうことも、今の私と切り離せません。

 そのような経験をした自分が、今の自分になったのです。あの欠点、あの失敗のあった自分の延長が今の自分であり、恥ずかしい過去も自分の一部であって切り離せないのです。

 一方、そう思うようになっても、過去を思い出しては自分を責める性癖を根だやしにすることは、やはりできません。そのため、「もの思わざるは仏の稽古なり」と、いつも口癖のように唱えています。

 

過去は日刊雑誌。読んだらすぐに処分しておこう。

自分の頭を「記憶のゴミ屋敷」にしてはなりません。

 

長くなりました(笑)

結論は、いいことも悪いことも、忘れること、思い出さないこと。

今だけを生きる、ということかな??

悪くない。

 

 

著:

高田 明和(たかだ・あきかず)
浜松医科大学名誉教授 医学博士
1935年、静岡県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業、同大学院修了。米国ロズウェルパーク記念研究所、ニューヨーク州立大学助教授、浜松医科大学教授を経て、同大学名誉教授。専門は生理学、血液学、脳科学。また、禅の分野にも造詣が深い。主な著書に『HSPと家族関係 「一人にして!」と叫ぶ心、「一人にしないで!」と叫ぶ心』(廣済堂出版)、『魂をゆさぶる禅の名言』(双葉社)、『自己肯定感をとりもどす!』『敏感すぎて苦しい・HSPがたちまち解決』(ともに三笠書房≪知的生きかた文庫≫)など多数ある。