人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

新盆

 

 

 

お盆なんて、大人の夏休み、ぐらいの認識であった。

ふと母は帰って来るのだろうかと考えたが、そんなことはないだろう。

母は徹底した現実主義の無神論者であり、霊だの死後の世界だのといったことには全く否定的であった。

そんな母が盆にあの世から帰って来るとは、とうてい考えられない。

 

母が亡くなってから、3ヶ月が経った。

自分でも不思議なほど、今はもう悲しくはない。

とても穏やかに、思い出すことができる。

まるで生きていたことなどなかったのではないかと思うぐらいだ。

 

死者はいつでも側で見守っている、などと言うが、そうも思わない。

母は死んだのだ。消えた。もうその存在はなくなってしまった。

窮地に母の言葉が聞こえて来たりなんかしない。

ふと胸に甦りもしない。

残ったのは「記憶」だけだ。存在ではない。

 

それでも、私の中に残されている母がある。

例えば料理をしていると、「フライパンがじゅうぶん温まってから油を入れて」、「目玉焼きを作る時には水を少し入れる」とか。

これまで意識していなかったが、母の「教え」が私に残されていた。

もっとも私はとにかくボーッとしていたので、教えの多くはすり抜けて行ってしまったことだろう。

そんな中で、日常の小さな習慣に母を思い出す。

こうして母は、私に残されているのである。

 

 

 

「これな、ゴーヤ。薄く切ってダシと混ぜて酢につけるといいぞ。」

父から残される「教え」のひとつになるのだろうか。

父亡きあと、私はゴーヤの酢漬けを作るにつけ、思い出すのだろう。

私は娘に、何を残せるのだろうか。

 

少なくとも「いつまでもそばで見守っているわ」なんて言ってやらない。

私が今こうして悲しい気持ちにならずに済むのは、母の現実主義のお陰だ。

ぶー子よ、前を向いて歩き続けなさい。

悲しんだって、何も戻りはしないんだよ。