お盆なんて、大人の夏休み、ぐらいの認識であった。
ふと母は帰って来るのだろうかと考えたが、そんなことはないだろう。
母は徹底した現実主義の無神論者であり、霊だの死後の世界だのといったことには全く否定的であった。
そんな母が盆にあの世から帰って来るとは、とうてい考えられない。
母が亡くなってから、3ヶ月が経った。
自分でも不思議なほど、今はもう悲しくはない。
とても穏やかに、思い出すことができる。
まるで生きていたことなどなかったのではないかと思うぐらいだ。
死者はいつでも側で見守っている、などと言うが、そうも思わない。
母は死んだのだ。消えた。もうその存在はなくなってしまった。
窮地に母の言葉が聞こえて来たりなんかしない。
ふと胸に甦りもしない。
残ったのは「記憶」だけだ。存在ではない。
それでも、私の中に残されている母がある。
例えば料理をしていると、「フライパンがじゅうぶん温まってから油を入れて」、「目玉焼きを作る時には水を少し入れる」とか。
これまで意識していなかったが、母の「教え」が私に残されていた。
もっとも私はとにかくボーッとしていたので、教えの多くはすり抜けて行ってしまったことだろう。
そんな中で、日常の小さな習慣に母を思い出す。
こうして母は、私に残されているのである。
「これな、ゴーヤ。薄く切ってダシと混ぜて酢につけるといいぞ。」
父から残される「教え」のひとつになるのだろうか。
父亡きあと、私はゴーヤの酢漬けを作るにつけ、思い出すのだろう。
私は娘に、何を残せるのだろうか。
少なくとも「いつまでもそばで見守っているわ」なんて言ってやらない。
私が今こうして悲しい気持ちにならずに済むのは、母の現実主義のお陰だ。
ぶー子よ、前を向いて歩き続けなさい。
悲しんだって、何も戻りはしないんだよ。