皿は乾かすものではなく、拭くものだったんだと知った。
そんな衝撃を受けたばかりだったが、先日また同じお宅で私に衝撃が走った。
ダイニングテーブルの上に物が置いていないのである。
厳密に言えば、鉛筆削りかなんかが載っていたが、私達の突然の訪問により、チャチャッと片手で片付いてしまったのだ。
もっと詳しく言うと、テーブルクロスというのか、うちと同じようにビニールの透明の保護カバーがかけられていたが、その中には星形の飾りだけが挟まれていた。
我が家はこのカバーの下に、保管しておきたい紙類をとりあえずを突っ込んでおく習慣があり、常に何かしらの紙が無秩序に挟まれている。
今入っているのは動物病院の領収書、名刺、7千円、「私の年金はどれだけ?」という新聞記事、切り取った切手、バルフレアのブロマイド、といったところだ。
ギタリスト宅から帰った翌日、私はそんな我が家のテーブルをまじまじと見ていた。
なぜこんなに違うんだろう。
このテーブルには紙類がゴチャゴチャ挟まっているだけでなく、その上にも色んなものが載って雑然としていた。
さしあたって、片づけられるものを片づけていく。
行き先の決まっているものは、問題ない。
しかしこのテーブルの上が常に汚いということは、行き先が決まっていないものがある、ということなのである。
しまうのが面倒な領収書と(はるか遠い隣の部屋の本棚が収納場所)、ダンナの私物、そして「問題のカゴ」が残された。
「問題のカゴ」。
私も、基本的にはものを置きっぱなしにしたくはないのである。テーブルの上もカウンターの上も、何も載っていないのが望ましい。
しかし、毎日スケジュールを書き込む(書き込んでいた頃のあった)手帳と、一日に2回飲む薬だけが、どうしても出しっぱなしになってしまう。
そこで考えたのが、このカゴだ。
このカゴを手帳と薬の収納場所とし、テーブルを使う時にはコタツに、コタツを使う時にはテーブルに移せば、卓上は常に広く空くのではないか。
予想できなかった自分が甘かった。このカゴはすぐに「とりあえずの物入れ」となり、行き場のないものがどんどん入っていった。
行き場のないものだから、行き場を考えなくては動かないのである。そしてそれは結構面倒なことである。
なにしろカゴに収まっているのだから、とりあえず片付いたようになっているのが罠だ。
もうこのカゴ自体が見苦しい。こんなはずではなかった。
中の物を片づける覚悟を決める。
喘息の吸入器、スマホの取説、ハイヒールの中敷き。
そして最大の難関。チョーク。
これまで色んな方法で家計簿をつけてきたが、どれも長続きしなかったのだ。その挙句に辿り着いた方法がこれだ。黒板に目盛りを入れ、毎日使った額の分だけ線を引いていく。レシートはその時に見せて終わり。
ホワイトボードにしなかったのは、単に見た目の問題だ。黒板の方がインテリアとして見栄えがいい。もっきゅんがいつの間に絵を描いてくれたりして、思い出も刻まれた。
そして黒板といったら必要になるのはチョークだ。一緒に100均で買ったのだが、これ、ひと箱に36本も入ってるのねEE:AE5B1
この用途でチョークなど、そうそう消費する物ではない。
新しく買ってきたもので収納場所もなく、私はとりあえず、カゴに入れた。
そのまま数ヶ月が経った。
猫のエルがこのカゴの角が好きで、良く頬ずりをする。
気持ちがいいらしく、力いっぱいの頬ずりだ。カゴは押されて良く落下した。
チョークが入っている容器は、紙の箱だ。しかも開け口が大きかったため、36本のチョークは入れ代わり立ち代わりここから良く飛び出したものである。
やっとこれをどこかにしまおうと思った時には、中のチョークはボロボロに折れ、36本が50本ほどにもなってしまったために、箱に入りきらなくなっていた。
こんなに使う日は来ないのは分かっているが、使っていないものを捨てるのも忍びない。
捨てないためには使い切るしかない。
使い切るには毎日コツコツと家計簿ならぬ家計線を書き込んでいくしかないだろう。
私はパンパンに膨らんだチョークの箱を、セロテープでとめて中身が出ないようにした。
そして、動きのない収納棚に入れた。
これはいつか捨てることになるだろう。
しかしそれは今ではない。
その決断までには、然るべき歳月が必要なのである。「何年も使わなかった」と言える歳月が。
こうしてテーブルに、束の間の凪が訪れた。
見渡す限り何もなく、360°パノラマの水平線の如きである。
皿拭き革命に続き、パノラマテーブル革命なるか。
人生、まだまだ学ぶことがたくさんありそうだ。