さぁ、飲みに行こう・・・、と駅前を歩いていた時の事だ。
すれ違った人に「あの、すみません・・・。」と話しかけられたような気がして振り返ったのだ。
大きなケースを抱えた若い男性が、遠慮がちにこちらを見ていた。
「??」
「あの・・・、僕、ここで行商をしているんですが、フルーツとかお好きですか?」
見るとケースの中には、ぶどうやみかんなどのフルーツがたくさん入っている。フルーツ・・・。
「いえ、フルーツは特別には・・・。」嘘ではないが、これから飲みに行くのにフルーツを買っていくのも何か面倒であった。ここはぜひ、遠慮したいところである。
「そうですか・・・。例えばみかんなんかどうですかね?これ、箱、見てください。とても上等なものなんです。その辺に売ってるのとは全然違います。すごく甘いんですよ。」
「で、それいくらなんですか?」ダンナが聞く。深入りするなよ!?
「ええと・・・、13個で千円です。」
みかんに千円。千円出して唐突にみかんを13個買う人など、いるのだろうか。
「えっ、千円!?13個・・・、いいです、ごめんなさい。」
「あっ、じゃあお二人でケンカにならないように、14個にしますよEE:AE5B1いかがですかEE:AE5B1」
14個・・・。そういう問題ではない。むしろ問題は「みかん」なのである。
「これから出かけますんで、荷物になりますから・・・。」
「じゃあ、半分でどうですか!?500円で!」
ここで私達の中に、不思議な現象が起こった。
みかんなど、欲していなかった。そんなものに金を出したくない。早くこの人から逃げたい。そもそも胡散臭いじゃないか、フルーツの行商なんて。
そう思っていたのが、
500円。安い。それなら買ってもいいかも。という気持ちに傾いたのである。
行商の彼は、どんなにいいみかんなのかを語る。
もうみかんの素性など、どうでもいい。
面倒臭くなったのと、500円ぐらいならいいか、という気持ちが結びついてしまったのである。結局買ってしまった。
買ったからには前向きにいきたいので、このみかんを楽しみにする事にした。
飲んだ翌日のフルーツなら、美味しいはずだ。悪い買い物ではなかったのかも。
そしてこの晩もしこたま飲み、予定通り二日酔いになった。
ところで、一晩経って冷静になり、私は最近読んだある本を思い出したのだ。
それは、こちらの言葉次第で相手の「NO」を「YES」にする事ができるという、「伝え方」のマニュアル本であった。
言葉を計算して相手の返事を操作するというその考えが浅ましく、このブログで酷評したばかりであった。
私は前夜の会話を思い出していた。
なぜ急にみかんなど買う気になったのだろうか。
それは、千円が500円という、手の届きやすい値段に落ちたからである。最初から7個500円だったら、買わなかったのではないか。
あの行商人は、本にあったような「話術」で私達を乗せたのか。
そう考えると、最初の13個を14個にした「お得感」も、胡散臭い。
だから私は、こういうのが嫌いなのである。騙されたような気持ちになるじゃないか。
彼が美味しい果物を良心的に売ろうとしているのなら、多少高くてもこんな気持ちにはならないだろう。
やられた、という悔しい思いがこみ上げてきた。
いや、待て。
まだ答えは出ていないぞ。
彼が美味しい果物を良心的に売ろうとしている可能性も、まだ否定はできないじゃないか。
このみかんが超絶美味しければ、問題ないのである。
みかんの入った袋から、ひとつ取り出してみる。
・・・硬い。危険な硬さだ。皮は薄く、まるで熟れきっていないような硬さであった。
ダンナが剥いて、ひとつぶよこしたが、あれ??薄皮もとても薄い。薄くて柔らかい。これは予想外だ。この中はどうなっているのか。
美味しかったEE:AEAC5
とっても甘くて、美味しいみかんであった。
伝え方のマニュアル本もよろしくないが、頭から疑ってかかるのもよろしくない。買ったからには、信じていれば何も問題はないのである。みかんが美味しくなかった時、初めて疑いをかければ良いのである。
しかし私は甘いみかんを食べながらぼんやりと、確かに美味しいが価格設定は正しいのか、などと考えていた。
疑り深いと人は、幸せになれない。