今週のお題「大発見」
「発見」ではなく、「大発見」というのが難しい。私如きの人生のおいての大発見とは。人様に語れるようなことがあろうはずないのだが。
もう6年も前になるのか。
急遽入院した母は、死へと向かっていた。
肺炎を起こし、日に日に弱って苦しんでいくのを見るのは辛く、何もできない自分をもどかしく思っていた。
酸素吸入器を外そうとするので、目が離せない。苦しむ母に、音楽を聞かせたりして長い時間を過ごしていた。
点滴が切れると、いっそう辛そうだ。看護婦さんに追加を頼んでも、時間を空けなくてはならないという。そうなると次の点滴までは、「苦しみの時間」だ。
ガンの叔父を見送った叔母が言っていた。「『痛み』は取ることができても、『苦しみ』はどうにもならないんですって」。
バッハが好きだった母にバッハを聴かせると、少しばかり落ち着くことはあった。これは「発見」。私は繰り返しバッハをかけた。
試しにリストの「愛の夢」を聴かせた時は、途端に顔をゆがめたので驚いた(笑)兄に話すと、「あぁ、おふくろ、その曲嫌い。」と笑った。
このように、薬以外にも精神的な部分から鎮静効果が望めるということが分かったのは、発見だ。
ならば、と考えての行動ではなかった。それはとっさの偶然からの産物である。
いよいよ母も苦しむ時間が増え、その苦しみも強くなっていく。
何もできないもどかしさから私は、衝動的に母の胸に手を当てて「楽にな~る」と唱えていた。
楽にな~る。
楽にな~る。
楽にな~る。
子守歌を歌うように、私は願った。
すると苦痛に歪んでいた母の顔が、スッと穏やかになっていくのである。大きくあえいでいた呼吸も、静かになっていく。
驚いた。
偶然なのか??
ところが何度繰り返しても、同様の効果を見せたのだ。後から来た兄も驚き、兄自身も体験した。私達はこれを「ラクナール」と名付け、何度も母に施したのだ。
これは偶然でも、希望的観測でもない。
大発見だ。
しかしやがてラクナールの力も及ばなくなり、モルヒネで母はやっと楽になることができたのであった。
その後、私はこのラクナールをもっと発展させて確かなものにしたいと思ったが、残念ながら患者がいない(笑)
そのままこのことは忘れていた。
一体何が作用したのかは分からない。
もしかしたら手の平から、目に見えない何かスンバラシイものが出ていたのかもしれない。
だから私は、目に見えない「何か」を信じたくなるのである。
測れないだけで、否定はできないのだ。
目に見えないものほど、強い力を持つ。
人を救うのは、科学だけじゃないと。