人の死を願うなどということは不謹慎なことで、無意識に避けて来た。穴二つなどと言い、自分に返って来るのが怖いのもある。
しかし私は今、遠慮のない殺意を抱いているのだ。4月16日にも書いた。あれから気持ちは変わっていないということだ。
細かいことを言えば、殺すには惜しい。
自分のしたことを、その罪の重さを思い知らせてやりたい。後悔と懺悔の渦に飲み込まれ、絶望に追い込まれて初めて、その死が許されるべきだろう。
しかし早く死んでくれないことには、犠牲者は増える一方である。
死ね死ね死ね。
週明けの忌々しい朝に布団の中で呪う相手は、コンクリート殺人事件の主犯から侵略戦争の主犯へと変わった。
こんなことぐらいしかやれることがない。果たして凡人の「呪い」の効果はいかほどなのか。そもそも目に見えぬ「呪い」の効力とは。世界中にいる呪術師が力を合わせて呪ってくれないものだろうか。というか、一人ぐらい呪いをかけた呪術師がいてもいいものだが。やはり呪いに効果はないのか。
世界中の人間が、ある時間を決めて一堂に心を込めて呪ったらどうか。私は真剣に考えた。
目に見えぬ負の波動は目に見えぬ刃となって、その一点に刺さってはくれないか。
そんなことを考えながら、ビリーズブートキャンプのキックやパンチをかの人に当てている。
無力である。