人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

そして、苦悩する。

色々考えていたら訳が分からなくなってきて、こんがらがっている。

答えなんてないのだ、考えても仕方ないんだが。

昨日、亡くなった母のことを書いた。

そのために私は久しぶりに「スイッチ」を押したのだが、そのせいで出口のない迷路にすっかりはまってしまったのだ。

いつかまた、母に会える。

私は死後の世界の存在を信じているのだろうか。

そこで母は、私を待っていてくれると言うのか?

私だけを?父と兄も?孫であるぶー子も?

母が先に逝ったのは、肉体が限界を迎え、壊れてしまったからだ。

こうなることを、母は知っていたのだろうか、ここに来る前の「その世界」で。

なぜ、母は、私は、この世界に生まれてきたのだろうか。

それは自分の意思だったのか。

自然のサイクルなのか。

そもそも母とは、ずっと絆で結ばれていたのだろうか。

そうでなければ、もう母とは会えないかもしれない。

仏教では、この世で生きることは修行だと言う。

確かに、楽しいことばかりではない。見方を変えれば、苦難の連続である。

失敗があり、苦悩があり、ジレンマがあり、逃げることは許されず。

でも、喜びもある。

修行だとしたら、なぜそこに「喜び」も配置したのか。

苦労ばかりだと、この世に人がいなくなっちゃうからか??

今私は、幸せかと聞かれたら幸せだ。

それでもそれは、手放しの幸せではない。

悩み、考え、慎重に生きているつもりだ。

幸せは、ほんの一面でしかない。簡単に消えてしまうものだ。

その背中合わせの不幸に怯えながら、失敗しないように進んでいく。

これが修行なのか。

一方、自らを省みることもなく、自由に生きている人もいる。

人を傷つけ、利用し、何なら破壊までしてのうのうと生きている人、それもまた同じ人間であり、同じように死に、同じように逝く。

その行き先がみんな同じとは、どうも納得が行かない。

じゃあ地獄があるのかと言えば、それもピンと来ない。

死の苦しみもまた、平等だ。

望んでか望むまでもなくかは分からないが、この世に生まれて来て失敗し、苦悩し、絶望し、束の間の喜びでごまかされて挙句に苦しんで死ぬ。

一体私達は、何のために生まれてきたのだろうか。

「ツリーオブラブ」というキリスト教の映画の中で、「神は与え、神は奪う。」というくだりがあった。

永遠のものなどない。

どんなものも、どんなことも、いつかはなくなってしまう。

私は母を与えられ、母を奪われた。

やがて残った家族もひとりずつ奪われていくだろう。

友達もいつかは去る。

楽しかった出来事も、永遠には続かない。

そして最後に、人生そのものを奪われるのだ。

一体私達は、なぜ生まれてきたのだろうか。

あの罪深い人たちは、幸せなのだろうか。

私は果たして罪深くはないのだろうか。

お母さん、謎は解けましたか。

死んだら無になると言っていたけど、そんなことはないよね?