色々考えていたら訳が分からなくなってきて、こんがらがっている。
答えなんてないのだ、考えても仕方ないんだが。
昨日、亡くなった母のことを書いた。
そのために私は久しぶりに「スイッチ」を押したのだが、そのせいで出口のない迷路にすっかりはまってしまったのだ。
いつかまた、母に会える。
私は死後の世界の存在を信じているのだろうか。
そこで母は、私を待っていてくれると言うのか?
私だけを?父と兄も?孫であるぶー子も?
母が先に逝ったのは、肉体が限界を迎え、壊れてしまったからだ。
こうなることを、母は知っていたのだろうか、ここに来る前の「その世界」で。
なぜ、母は、私は、この世界に生まれてきたのだろうか。
それは自分の意思だったのか。
自然のサイクルなのか。
そもそも母とは、ずっと絆で結ばれていたのだろうか。
そうでなければ、もう母とは会えないかもしれない。
仏教では、この世で生きることは修行だと言う。
確かに、楽しいことばかりではない。見方を変えれば、苦難の連続である。
失敗があり、苦悩があり、ジレンマがあり、逃げることは許されず。
でも、喜びもある。
修行だとしたら、なぜそこに「喜び」も配置したのか。
苦労ばかりだと、この世に人がいなくなっちゃうからか??
今私は、幸せかと聞かれたら幸せだ。
それでもそれは、手放しの幸せではない。
悩み、考え、慎重に生きているつもりだ。
幸せは、ほんの一面でしかない。簡単に消えてしまうものだ。
その背中合わせの不幸に怯えながら、失敗しないように進んでいく。
これが修行なのか。
一方、自らを省みることもなく、自由に生きている人もいる。
人を傷つけ、利用し、何なら破壊までしてのうのうと生きている人、それもまた同じ人間であり、同じように死に、同じように逝く。
その行き先がみんな同じとは、どうも納得が行かない。
じゃあ地獄があるのかと言えば、それもピンと来ない。
死の苦しみもまた、平等だ。
望んでか望むまでもなくかは分からないが、この世に生まれて来て失敗し、苦悩し、絶望し、束の間の喜びでごまかされて挙句に苦しんで死ぬ。
一体私達は、何のために生まれてきたのだろうか。
「ツリーオブラブ」というキリスト教の映画の中で、「神は与え、神は奪う。」というくだりがあった。
永遠のものなどない。
どんなものも、どんなことも、いつかはなくなってしまう。
私は母を与えられ、母を奪われた。
やがて残った家族もひとりずつ奪われていくだろう。
友達もいつかは去る。
楽しかった出来事も、永遠には続かない。
そして最後に、人生そのものを奪われるのだ。
一体私達は、なぜ生まれてきたのだろうか。
あの罪深い人たちは、幸せなのだろうか。
私は果たして罪深くはないのだろうか。
お母さん、謎は解けましたか。
死んだら無になると言っていたけど、そんなことはないよね?