人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子56歳。

プレゼントに溢れる日々

死後どうなるか(ハイ、また始まりました笑)、この世にいるうちは誰にも分からない。

分からないが、「こうなるんじゃないか」という予想や願望はそれぞれあるのではないか。

私がこの頃死後の世界や生まれ変わりを信じるようになったのは、そんなものでもなければこの世に生きる意味が分からない、というところから来ている。

去っていく人を見送って、その思いは強くなった。母は、何のために生まれて来たのか。これでもう終わりなんて、思いたくない。

きっと何か意味があるのだ。それを果たして帰って行ったのではないか。

出会う人に何らかの影響を与えるために、人は生まれるのかもしれない。

上手く言えないんだが、起こること、存在することその全てに意味があるような気がしている。

そう思うと、つまらんことに心が乱されなくなるものだ。

失敗も、不愉快な出来事も、私のために起こるのだ。私はそこから何かを学び取る必要がある。

嫌な野郎も、私に必要な存在なのである。「嫌だ」と思っているうちは、まだ未熟なのだ。こいつを好きになれたら、私も幸せになれるだろう。幸せになるための、修行みたいなものだ。

ネガティブな思いは、自分を不幸にする。

バスに乗り遅れるのも、お釣りをもらい忘れるのも、人を怒らせてしまうのも、グラスが壊れるのも、結局は自分を幸せにするために起こっているのだ。

私はそこから何かを学び取らなくてはならない。

学び取ったならば、少しばかり生きることが上手くなっているはずである。

私は非常に不器用で、失敗が多く、負の要素を数え出したらきりがない人間だ。

しかし世の中は私を幸せにしようと、次々ネガティブな問題をふっかけてくるのだった。

「その先にあるもの」を信じていれば、受け入れられる。

意味があるから存在する、「できごと」の繰り返し。それをプレゼントのように受け止めて暮らすこと。

そんなプレゼントのやりとりをするために、人は存在するのかもしれない。

母との関係は決していいことばかりではなかったが、これもまた必要なことだったのだろう。私には。

そのつらかった過去に、どんな意味を見出せるか。それが分かった時、私はまだ幸せに近づくのだろう。

今、これまでになく気持ちが凪いでいる。

なんだよ、もうすぐ死ぬんかなぁ(笑)