死後どうなるか(ハイ、また始まりました笑)、この世にいるうちは誰にも分からない。
分からないが、「こうなるんじゃないか」という予想や願望はそれぞれあるのではないか。
私がこの頃死後の世界や生まれ変わりを信じるようになったのは、そんなものでもなければこの世に生きる意味が分からない、というところから来ている。
去っていく人を見送って、その思いは強くなった。母は、何のために生まれて来たのか。これでもう終わりなんて、思いたくない。
きっと何か意味があるのだ。それを果たして帰って行ったのではないか。
出会う人に何らかの影響を与えるために、人は生まれるのかもしれない。
上手く言えないんだが、起こること、存在することその全てに意味があるような気がしている。
そう思うと、つまらんことに心が乱されなくなるものだ。
失敗も、不愉快な出来事も、私のために起こるのだ。私はそこから何かを学び取る必要がある。
嫌な野郎も、私に必要な存在なのである。「嫌だ」と思っているうちは、まだ未熟なのだ。こいつを好きになれたら、私も幸せになれるだろう。幸せになるための、修行みたいなものだ。
ネガティブな思いは、自分を不幸にする。
バスに乗り遅れるのも、お釣りをもらい忘れるのも、人を怒らせてしまうのも、グラスが壊れるのも、結局は自分を幸せにするために起こっているのだ。
私はそこから何かを学び取らなくてはならない。
学び取ったならば、少しばかり生きることが上手くなっているはずである。
私は非常に不器用で、失敗が多く、負の要素を数え出したらきりがない人間だ。
しかし世の中は私を幸せにしようと、次々ネガティブな問題をふっかけてくるのだった。
「その先にあるもの」を信じていれば、受け入れられる。
意味があるから存在する、「できごと」の繰り返し。それをプレゼントのように受け止めて暮らすこと。
そんなプレゼントのやりとりをするために、人は存在するのかもしれない。
母との関係は決していいことばかりではなかったが、これもまた必要なことだったのだろう。私には。
そのつらかった過去に、どんな意味を見出せるか。それが分かった時、私はまだ幸せに近づくのだろう。
今、これまでになく気持ちが凪いでいる。
なんだよ、もうすぐ死ぬんかなぁ(笑)