母の声を聞いたのは、何年ぶりになるだろうか。
「もうこのまま死ぬまで会えないのかと思ってねぇ。」
厳格で、弱音を吐くことなどなかった母は、歳を取ってボケ始めた頃から「死ぬ」という言葉を良く出すようになった。
昔の母は、死ぬことなど恐れているようには見えなかった。
母には「死後の世界」など存在していなかったのだ。
「死んだら無になるだけ。」、ドライにそう言っていた。
ボケとは言ってもまだまだ軽症で、しっかりしている時は以前の母とそう変わらなかった。
しかし母にとって「何が何だか分からない」という状態があることは、大きな不安になっていたようである。あの頃から母は、弱くなったと思う。
事情があり、私は父と母との関係を断つことにしたのだ。
それから数年。
母のボケが進んでいれば、私のことなど忘れているかもしれない。
いっそその方がいいと思っていた。
私は最後まで、親不孝だ。
それでも、悔いはない。
やれることはやった。
そしてそれは、何ももたらさないと知った。
電話を取り次いだのは、兄だった。
母の声は変わらず、穏やかだった。
体の不調は良くなり、思ったほどボケてもおらず、元気そうである。
これなら私の存在など、消えても良さそうだ。
「もうこのまま死ぬまで会えないのかと思ってねぇ。」
そんなことを言われると、気持ちが揺らぐ。
いったい母の中に、私はどれほど残っているのだろうか。