「『子供』というものは神様の宝物です。私たちは少しの間、その宝物をお借りしているのです。」という言葉を聞いたことがある。
それを聞いたのはずいぶん前だが、「はぁ?ちげーし。私が産んだし。」と思った覚えがある。
しかしその間違いには、宝物を返すときに気づくのである。
娘ぶー子が出て行った。
昨日の夜のことである。
ぶー子の中ではもっと早くから動き出していたようだが、私がそれを知ったのは日曜日のことだ。
彼女の世界ではいろいろな事があったらしいが、それについて私は全くわからない。
子供の世界を把握できるのはせいぜい高校生ぐらいまでで、特に最近のぶー子に何が起こっていたのか、悪い想像はできても実際のところはほとんど知らないのが実情であった。
なので突然の自活宣言に面食らったが、ある意味、突然で良かったのかもしれない。
残された時間に怯えなくて済んだ。
親の役目とは、子供が独り立ちできるようにする事だろう。
家を出るか、結婚するか、そこが親離れであり、子離れであり、別れであり、子育ての終了である。
まさかこんなに早く、こんなに突然にその日が来るとは思いもしなかった。
正直、一生家にいてくれても良かったと言うのが本音だが、それでは親として失格だ。
娘を、自分を、叱咤しつつ独り立ちさせるのが私の親としての最後の使命なのである。
今回の旅立ちは喜ばしいことだと思わなくてはなるまい。
「ぶー子なら大丈夫。」と一言だけ言って、笑顔で送り出すべきだったのだろう。
最後まで私は、「窓の鍵は閉めて寝ろ」、「ドアにはチェーンをかけろ」、「タバコの吸殻に気をつけろ」と思いつくだけの注意事項を言い、我慢できずにボロボロ泣いた。
対するぶー子は、大きく投げキスをして去っていった。
これで良かったのかも知れない。
私のカゴは、もうぶー子には小さ過ぎる。
ぶー子が出しっぱなしたバスタオルがそのままになっていた。
私はそれを、洗濯機に放り込む。
こうしてぶー子の残した足跡は、ひとつずつ消えていく。
玄関の電気を消す時、スーパーでスイーツの棚を見る時、晩御飯の献立を考える時、つい習慣でぶー子のことを考える。
どれももう、必要なくなる習慣だ。
片手でつけられなかったブレスレット、「いい曲見つけたから聴いて!」と返事も待たずに曲を流す、子供のアニメを真顔で見ているぶー子・・・。
それらは突然、「日常」から「思い出」に変わってしまった。
当たり前だと思っていたが、それは紛れもなく神様からの贈り物であった。
それに気づいた時にはもう、思い出と空のカゴしか残っていない。
外を歩いていると、小さな子供の手を引いている母親とすれ違う。
私達は、別れるために子供を育てるのだ。
ランドセルを背負った小学生が笑っている。
子育て。なんて無益で意味のないことなのか。
制服を着た女の子がひとりで歩いている。
結局、最後には去っていくのである。
しかし神様が貸してくれたのは、おもちゃではなく紛れもなく宝物だ。
今では過去のどの日々も愛おしい。
例え返す前提であっても、もう一度貸してくれるなら借りたいぐらいだ。
次の使命は、私自身の独り立ちだろうか。
誰にも寄りかからず、自分らしく、生きていく。
神様が残してくれた小さな4つの宝物と、永遠のパートナーと共に。