実家にいた頃、2匹の猫を飼っていた。
親子である。
貰ってきた1匹が子猫を産み、それからずっとその2匹と暮らしてきたのだ。
小学校4年生の時である。兄弟のようなものであった。
やがて私は家を出たが、猫とも別れることになる。
とはいえ、私が出て行った先は隣町である。「別れ」というような悲痛な響きはなかった。
ところが親猫が死んでしまった。
外でケンカして作ってきた傷が化膿、入院先でひとりぼっちで死なせてしまったのだ。
ずいぶん泣いた。いつまでも泣いた。もうあの子を抱いてあげられないのかと思うと、辛くて悲しくて苦しくてたまらなかった。
そして、子供の猫の方が消えた。
実は順序が逆だったかもしれないが、とにかく子供の方が家に帰ってこなくなったのである。突然。
今でこそ猫の室内飼いは推奨されているが、あの当時はまだ家の中と外を自由に行き来している猫は多かったのだ。我が家もそんなひとつだったが、「チビが帰ってこない」と母はとても心配していた。
保健所に電話し、近所の人にも聞き、時間があれば探してみたらしいが、とうとうチビは見つからなかった。いまだにどうなったのかは分からない。
こう言ったらチビに悪いかもしれないが、不思議と私は「悲しい」という気持ちにあまりならなかったのだ。
心配で胸が張り裂けそうな時もあったが、泣いたりはしなかったと思う。
もしかしたら帰ってくるかもしれない、生きているだろうと、どこかで思っていたのだ。
「死んだ」という決定打がなかったので、悲しみようがないうちに時間が流れてしまい、「チビ不明」という中途半端なまま、チビは歴史を閉じてしまったのである。
娘ぶー子が家を出て2ヶ月が経った。
2回目である。「慣れた」という訳ではないが、心のどこかで「またすぐ帰ってくるかもしれない」と思っているからか、前回のような辛さはなかったのだ。
チビは結局帰ってこなかったが、それに比べれば帰ってくる確率は非常に高い。
もちろんこのままもう一緒に暮らすことはないかもしれないが、そういった実感が沸いてこないのである。
また、私自身もクヨクヨしていたくなかったので、意識的に自分のことばかり考えるようにしていたフシもある。
趣味、家のこと、自分のできること。
「今日そっち行くよ!」というメールが、また突然に届いたのだ。
ぶー子の計画性がないのか、この世代の傾向か、いつも唐突である。
約1ヶ月ぶりの帰宅だ、私はまたやれご飯だなんだと張り切るのだが、その帰宅も唐突であった。
インターフォンも鳴らさずに入ってきたようで、ドン!!という音で私は気がついたのだ。
何をしているのかは知らないが、ドンドンガタガタと行ったり来たりしている。
なんで最初に「ただいま」と言えんのか。
少々いきり立って玄関に出ると、そこには大量の荷物を抱えたぶー子がいた。
「え!?なに!?その荷物・・・。」
「あーうん、まぁちょっとル-ムメイトとモメてね。」
それは私の質問の直接的な答えではなかったが、意味するところはすぐに分かった。
私が呆然としている間にもぶー子は次々と荷物を運び入れ、最後に大きなスーツケースを持って入ってきた。
本人は「一時帰宅」と言っているが、どうやら不眠症のルームメイトと生活の時間帯がズレて、睡眠の妨げになっていたらしい。
彼女が昼間の仕事に変わるか、ぶー子が夜の仕事に変わるかしないと元には戻れないと思うのだが、前者の可能性はどうも低そうだし、親としては後者であって欲しくはない。
家にいてまっとうな仕事についてくれるのが理想的だが、それが難しいことは出て行くまでのぶー子を見ていて良く分かる。
彼女はキリギリスなのである。
蛙の子は蛙というが、キリギリスの子はキリギリスである。
必要なだけ金が入れば使い切るまで遊ぶ、極端に言えばそんな生活だ。
しかし正直、ぶー子が戻ったことは嬉しい。
久しぶりに3人で食べる夕食の楽しかったこと。
この家の中であんなに笑い声が聞こえたのは、正月以来である。
まぁしばらくは難しいことを考えずに、この団欒を大切にしたい。
ぶー子が帰ってきた。