今週のお題「大人になってから克服したもの」
登山、だ。
克服と言うと、今はその道で羽ばたいているが如きの響きだが、あくまでも自分比だ。全くダメだったものが、できるようになったという程度。それでも登山が楽しめるようになったことは、大きな進歩であった。新しい世界を拓いたと言ってもいい。
学校の遠足やキャンプというと、行き先は山が相場だ。登山を強いられる。
もう体のどこかに欠陥があるんじゃないかと思うほど非力で、私はいつも保健の先生と最後尾を歩いていた。
行けども行けどもゴールには辿り着かず、なんの地獄よ、と修行的行事を呪いつつ、ただただ歩いた。
お弁当とおやつぐらいは楽しんだかもしれないが、遠足はこれで終わりではない。帰るまでが遠足、復路が待ち受けている。
全く本当に、修行的行事であった。そのくせその体験で成長があったかと言えば、そんなものもありはしなかった。修行未満。地獄か。
それがいつ、このように気持ちが変わったのかは明確には思い出せない。恐らく時々行くようになった高尾山あたりがきっかけだったのではないかと思う。
ではなぜ、登山が好きになったのか。それを語るには、その逆の「なぜ登山が嫌いだったのか」からである。私が思うに登山は、個人プレイのアクティビティだ。それを学校の団体競技としたのだから、間違いだったのである。
そもそもあんな苦行を遠足として強制された時点で、楽しみはない。登山は自発的に向かうべきものである。それなりに覚悟をもって、自ら挑むべきものだ。
また団体行動であるが故、マイペースが許されない。それでも私は最後尾をトロトロ行く訳だが、嫌でも「自分は人より劣っている」という気持ちになった。
小学6年生の林間学校では同じ班のメンバーが私の荷物を持ち、ビリとしてゴールした私は拍手で迎えられた。
これがいい思い出になるか?私がどんな気持ちだったかなど、誰も知る由もなかっただろう。情けなくて涙が出そうだった。
そして、その逆である。
今はマイペースで好きなコースを歩くことができるようになった。
苦行と言う鎖から放たれ、自然を楽しむ余裕ができた。
大自然に抱かれ黙々と歩いていると、心がニュートラルになっていく。無心。
先を見ずに、一歩一歩あゆみを進めていく。その積み重ねで、ゴールへたどり着くのだ。あたかも人生の如く。大切なのは、小さな一歩の繰り返しである。ゴールは見ない。などと哲学めいた世界へといざなうのもまた、登山だったりするのだ。
偉そうなことを言いつつ、もう登山はしばらく行っていない。
足を痛めたのが原因だったが、すっかり治ってからも、ウォーミングアップのウォーキングを繰り返すだけで先に進まないのである。
まぁ色々他にもやりたいことがあるというのもあるが、ここ最近の大きなネックは「熊」だ(笑)そうそう出会わないと分かってはいても、私は本気で怖い。
次に登るのは、いつになるのか。熊次第か。いや、私次第である(笑)