特別お題「わたしがブログを書く理由」
そもそもは、理由なんてなかった。
気まぐれでブログを始めたのは2005年。
しかし18年も続いたのには、理由があるだろう。それはずっと後になって分かったことだ。
私はこのブログを、基本的に「記録」として書いている。
そもそもは書くことが好きで気ままに書いていたものだったが、振り返ると「あんなことがあった」、「こんなものを見た」という懐かしい思い出がたくさん残されていき、私の歴史となっていたのだ。
不思議なもので、書いたことは、忘れない。
買い物に行く途中のチャリバトル、娘とケンカしたこと、キャンプの後片付けでひとり屁をこいたこと、玄関でヤモリが死んでいたこと・・・、本来忘れてしまうようなことも18年分、ここにストックされているのだ。
過ぎてみると、どの日も愛おしい。それをこうして残せたことに、喜びを感じている。
こんな自分のための記録なので、他人様が見て面白いものではないことは自覚している。18年も続けてきて、アクセス数はもうある程度からは変化がない。
それでも人のために書いてしまえば、媚びるような文章になってしまうだろう。アクセス数に振り回されたくない。私は書きたいことを自由に書いていたいのだ。
そのくせこんな風にわざわざブログとして公開するのは、やはり誰かに見てもらいたいからでもある。「誰か見てくれる人がいるかもしれない」という希望が、ここまで続けられる力となった。
そして「書きたいことを自由に書く」ことによる暴走も、抑えられているのだ。
家にはひっそりとノートに書いていた日記があったが、他人が見る前提になっていないので生々しく、ひとりよがりで、もう本当に恥ずかしいものである。まるで中学生のポエムだ。
ブログでは、「誰か」が私のストッパーにもなっている。私は常にそれを意識する。
自分が書いたものを客観視すること。それは結果的に、人を傷つけたり不愉快にしたりしない手助けになっているはずだ。
だからこうして私は、外に向けてブログを書いている。それは自分のため。
そして、「もしかして見てくれているかもしれない誰か」のため、ということでもある。
私には「誰か」が必要なのだ。
その確かな希望をくれたのが、ブログだったのだ。
最近は休む日も多くなったが、できるだけ毎日書くようにしたいと思っている。
たとえ些細な日記でも、それは私の一部なのだ。その些細な一日が、記憶と共にここに残されるだろう。
ある意味凄いことだ。忘れ去られることのない、些細なこと。
それが「記録」の魔法だ。
ブログという魔法の箱に、私は「記録」を詰め込んでいく。
ここに今、18年分の「私」が入っている。