人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

お前、そんなとこにおったんか。

ご紹介させてください。

左が栗の甘露煮、真ん中がBBQに持って行ったサラダ油の残り、右はガムシロでごさいます。

 

 

 

2018年4月27日、私は「新たなる野望」を抱いた。

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まぁ私ごときの野望である。「ひとつのことを終わらせてから次のことをやりましょうね」という野望だ。とにかく目に付いたこと、気になったことにすぐ食いついてしまうので、何事も終わらないという繰り返しだったのだ。

何かを取りに行くならそれ以外のことをしない(物すら満足に取って帰れないのである)、1つ1つ物事を終わらせる、そうして「終わり」を見ていこうじゃないかと。

ほとほと終わらない生活であった。何もかもが中途半端で、それもまた時間経過で元に戻っていくのだ。一向に何も、終わらない。

ということに気付いたので、気になることがあってもそれは後回しにすることにしたのだ。

もう5年も経ったか。あれから。

家の中は、変わっていない。相変わらず散らかり、謎のものがそこを定位置としている。

慣れるものである。キッチンの流し台に栗の甘露煮が何年置いてあっても。

 

そう、やっと分かった。

一度見送ってしまうと、次にそれを見ても1回目ほどの衝撃はないのである。これが慣れだ。

そこにあることに、慣れてしまう。

やがてそこにあっても何とも思わないようになる。そしていつの間にそこが、定位置となっている。

 

甘露煮の賞味期限は、2014年3月30日。そりゃそうだよなぁ、娘ぶー子のために買ったものだ、彼女がまだこの家にいた頃に買ったのである。

口を開けぬまま、まずは冷蔵庫の片隅を定位置として数年を過ごした。

そのうち賞味期限が切れた訳だが、瓶詰めなのだ、結構余裕はあるだろうとそのままにしていたのだ。しかし栗を食べるぶー子はもうおらず、時が過ぎるほどに食べられるのかどうかが怪しくなっていき、さりとて捨てるのもためらわれ、本当に長い間、冷蔵庫で冷やされていた。

それでもいつか、決心するのである。こんなことになったのは、自分のせいだ。ケリをつけるのは自分しかいない。

ついに冷蔵庫からそれを取り出し、まずは匂いでも嗅ぐかと蓋を開けてみた。

 

・・・開かなかった。

硬くて開かなかったのである。

そしてそれが、流しに置いてあるということなのであった。これもまた、数年経つ。

油の容器もガムシロも、似たようなことだ。処遇に困って後回しにしているうちに、そこに馴染んでしまった。

 

こういうものが、たくさんあるのだ。これらを見送っていては、みんなそこが定位置になってしまう。

やはり「なんじゃこりゃ」と思った時に1つずつ片付けていかないと、終れないもので溢れてしまう。現状、溢れている。

 

ということで、超新たなる野望。「目に付いた時に片付けます」。

そう思ったとたんに、あぶり出しのように謎の定位置化しているものが見えて来る。お前、そんなとこにおったんか。

は~、頑張ります、2023年。