「もったいないなぁ・・・。」
それを手にして、ダンナが呟いた。
物を処分するにあたって、その基準は「必要か」「不要か」だけではないことに気付く。
必要がなくても、手放せないというものがあるのだ。
それは愛着だったり、軌跡だったり。
往々にしてこういったものは他人に理解されにくい性質を持っており、「不要」のレッテルを貼られることが多いものだ。
そしてその時ダンナが手にしたのは、処分群に分けられたビー玉である。
「こういうのが『分かる』とは思わなかった。私も手放すのは忍びないんだけど・・・。」
「子供の頃を思い出すなぁ。良く遊んだよな。色んな色があって、そうそうこんなのとか・・・。」
「おはじきも綺麗だったよねEE:AE471」
だからと言って、こういうものを残しても、結局場所を取るだけなのだ。取り出して遊んだりはしない。わざわざ出して懐かしんだりもしない。手放そうと思うから、惜しいだけなのである。
そう気が付いて、最近は思い切って処分するようにしている。
あるから惜しくなるのだ。
消えてしまえばすぐに忘れてしまうだろう。
思えばこういったコレクション的なものが、意外とたくさんあったのだ。
処分したものに関しては思惑通りとっとと忘れてしまったが、実はまだ思い切れないものがたくさん残されている。
その代表格が食玩で、これはまだ大きなショッピングバッグに大量に入ったまま停滞している。どうしたらいいか分からん。
切手。
切手だよEE:AEB30
何をトチ狂ったか急に切手を集めたくなり、母からたくさんもらったのである。
ワインのラベル。専用のレコーダーに収集。中身はほとんど千円しない安ワインだ(笑)
カップ麺のフタ。泣く泣くスクラップブックを捨てたが、その後またたくさん出て来たのだ。死んだと思った友との再会のようで、捨てられず。
ラッピンググッズも「使える」という名目のもと、たくさん買い込んでしまった。
このうえ今度はダンナが、スパークリングワインのワイヤーキャップを集め出したのだ。
思うに人は、「集める」ということに楽しさを感じるのではないだろうか。
そして時々それを見ては何となくワクワクする気持ち。
これこそ子供の頃のビー玉への想いだ。
大人になった私達に残された、純粋なときめき。
捨てるのやめたEE:AE471
どころか、収集再開だEE:AEB30
微笑みかけてた片付けの神がビビッてるぞ(笑)