「黒ゴマ」と「もつ煮」が逝った。
11月にお祭りのメダカすくいで買って来た6匹のメダカ達は、とうとう残り2匹だけになってしまった。
昨日突然2匹の具合が悪くなり、1日で死んでしまったのだ。
原因は分からない。
2匹とも、多少なりとも何度か持ち直したりしたので、私は最後まで希望を捨てられなかった。
一日中、死なないでくれと願いながら何度もメダカのいる部屋との往復をした。
このような切迫した気持ちには、日常でなかなかなるものではない。
それが一日続いたからか、今になってもその気持ちだけが抜けていかない。
上手く言えないが、死んだ事実は受け入れられる。
短い付き合いであった、悲しさを伴う喪失感とはまた違う、昨日のあの差し迫った気持ちだけが残っている感じなのである。
彼らの事が、頭から離れない。もういなくなってしまったのに、何をしていても「あ、黒ゴマともつ煮は。」と水槽に気が行ってしまう。
ふと、介護を終えてその人を送り出した時には、こんなような気持になったりするのかなぁなどと考える。
これは、言うならば人災だ。
私の経験不足、知識不足がこのような事態を招いたのだ。
しかし私はできるだけのことを尽くしたつもりだ。
こうして経験を重ねていくものなのかもしれないが、魚を飼うということについてちょっと考えさせられた。
もちろん、可愛いと思うから、飼うのである。
責任も発生する。
そこまでは猫と変わらないのだが、その対象が「魚を愛でる」ということから、「魚の世界を作る」ということにブレていくような気がするのである。
私は今回の失敗を生かし、この水槽の環境をより良くするだろう。
それでも小さな命だ、いずれまたどれかが死ぬ。
私はまた、学ぶ。
こうして私の経験は重ねられ、知識となり、死んでいく魚の数は減ってはいくだろう。
しかしこれでは、私が経験を重ねるために魚を犠牲にするようなものではないのか。
黒ゴマやもつ煮が死んでしまって、本当に悲しい。
それでもまだ水槽には2匹のメダカ、エビやドジョウがいるのだ。ここで止める訳にはいかない。
私はこの水槽の環境を、より良くしなくてはならない。
それはもちろん魚のためだ。
でも何だか「ニワトリが先か卵が先か」のような迷路にはまってしまっている。
水槽を作ることは、人間の傲慢ではないのか。
魚の世界を、人間が作る。
そんなことをしていいのか。
私は魚を飼いたいから飼っているのか、魚の世界を作ることに挑戦しているのか、分からなくなってきた。
答えは出ない。
いずれにしろ、開いてしまった扉だ。責任を持って、最後まで全うするだけである。
果たしてその「最後」とは何なのか。
責任を投げた時なのか。
挑戦に負けた時なのか。
魚に飽きた時なのか。
どれも勝手な理由である。
力なく、水面に浮く枯葉のように漂っていた黒ゴマともつ煮。
最後まで、生きることを諦めないかのように時々動いては、また浮かんでいた。
その姿が目に焼き付いて離れない。
これは私への「警告」なのだろうか。
彼らは私に大きなものを投げかけて去っていった。
・・・考え過ぎだ。
きっと年が明けた頃には、そんなことも忘れているだろう。
水槽で生まれたメダカの運命を、私が誰よりもいい運命にしてやる。
そうとでも考えておく。