涼しくなってきたからか、体調のいい日が増えてきたのだ。
体調が戻れば気力も戻り、あれこれやろうとしていたことが甦る。
もう処分できるものはゴッソリと処分して、スッキリしたかったのだ。
チラリ。
この袋。
もういつからここに置いてあるのよ。食玩。
今年の3月に「数ヶ月前から置きっぱなし」というのだから、下手すると1年近いということだ。
そりゃそうだ、しまう場所もない、捨てられない、そこから進んでいないのだから、動きようがない。
ならこんなところに出しておくべきではないのだろうが、しまったらこの存在をまた忘れてしまう。
ある日思い出して、取り出して、結局繰り返しなのだ。
この家に引っ越してきて10年。
それよりもずっと前から集めていたことを考えると、10数年の放置ということである。いい加減にしたまえ。
断捨離的観点からみれば、これは明らかに捨てるべきものである。
何の役にも立たない、ただ見ていて癒されるだけのものなのに、見られもしない状態で置きっぱなし、10数年。
見られないことで誰も困りはしない。今後も困る予定はなし。
しかし決定的に手放せない理由が頑としてそこにあるのである。単純に手放したくないという。
私はその心理について考えた。
なぜ、と、つきつめても、「手放したくない」、ただそれだけだ。
そのくせ「そばに置いておきたい」「いつも見ていたい」というほどの執着はない。
なのになぜこんなに手放し難いのか。
捨てるなり売るなりあげるなり、手放すことを具体的にイメージしてみる。
いやぁぁぁEE:AEB30
このキウイの細かい毛、お弁当のお茶、給食セットのこの小さなスプーン。もうそれはそれは可愛くて仕方がない。
この感情。
思い出した。
おままごとだ。
私は、これらのミニチュアでままごとができたら、どんなに幸せだろうかと思った。
しかし残念ながら、残されたのは感情だけで、ままごとのスキルはもうほとんど残っていない。
厄介なことになった。いっそ感情の方も涸れてくれればこんなことにはならなかったのに。
幼いころの甘味な幻想の世界が蘇る。
そういえば、似たようなもので昔、シルバニアファミリーのシリーズを集めていたことがあった。
小さなこのうさぎの家族の小さな家具や調理器具がどんどん溜まっていき、しまいには大きな木製のケースを作り、そこでシルバニアの世界を作れるようにした。
しかし私は作らなかった。ままごとの能力が涸れていたからである。
なのでケースは単なる収納ケースとなったが、やはり今ここにある食玩と同じような運命を辿っていた。
邪魔だ。
でも手放したくない。
そこで思いついたのは、隣の子供にあげることだった。
喜ばれたかどうかは分からないが、私の方は後腐れなかった。隣の子が「世界」を作ってくれると思うと、むしろ嬉しくもあった。
これで良かったのだ。
これらはあの子のために生まれ、あの子は私の夢を叶えた。
ならば今ここにある食玩も、子供にあげてしまえばいいのではないか。
うううう~~~ん。
それも悪くはないのだが、今ここにあるコレクションはかなり精巧にできていて、もはやおもちゃというより美術品の粋なのである。
子供達にこのキウイのケバケバのありがたみなど分かりはしないだろう。私はそれが忍びない。
幼児性を残した厄介な大人だ。
やはり飾るしかなかろう。
トホホ。