こんなところに書いたところで仕方がないのは重々承知だが、どうしても腹が立って悔しくて収まりがつかないので書かせていただきます。
問題提起でもない、何をするでもないただのグチだが、どうしても我慢がならないのだ。
もうずっとムカムカしていた。
吐き出したい。
大々的にニュースになっていたのでご存知の方も多いと思うが、ペットの葬儀業者が、預かった遺体を山に廃棄していたという話だ。
その数は100を超えるとか超えないとからしいが、最初私はそのニュースを新聞で知った。
胸が痛むのであまり知りたくない、と軽く流したのだが、昨日仕事から帰ると娘ぶー子がつけていたテレビでその後をやっていたのだった。
ワイドショー的なニュースである。
写真を多く使っており、ボカシは入っていたが、遺体が2体ほど映された。
洋服を着せられた小型犬だった。
体の上には折り鶴があり、飼い主の別れのつらさが偲ばれる。
もう1体もやはり洋服を着た小型犬だったが、こちらはアクセサリーできれいに飾られていた。
本当は別れたくない、それでも身を引き裂かれるような思いをして手放すのである。
精一杯着飾って送り出されたその子らを、ゴミ同様に山中に捨てた容疑者の神経を疑う。
金が欲しい、面倒だ、そういう気持ちは誰しもあるだろうが、こんなことは並大抵の神経でできるものではない。
容疑者として捕まったからには後は法が然るべく裁くだろうが、刑を受ければそれでいいのだろうか。
今回の事に限らず、罪を犯した者が本当にしなくてはならない事は刑を受ける事ではなく、罪の重さを知る事なのではないかと私は思う。
逆に言えばそれが出来れば他に何もいらないとすら思う。
罪の重さを知ればそれなりの重さを背負い、それなりの償いをするだろう。
現在の日本では、それを望めないのが現実のようだ。
少年犯罪を含め、刑務所に入っても刑期を終える義務さえ果たせば社会に戻れるというのが実情で、再犯は後を絶たない。
死刑囚が悔い改める話は聞くが、命が関わってこないと人間は自分の罪と向かい合うことができないのだろうか。
「廃棄物処理法違反」、これが今回の容疑になるらしいが、つまりペット(私に言わせれば家族である)の死体(私に言わせれば遺体である)はゴミとして扱われている。
罪を問われたところで大した罪になりそうもないが、捨てられた遺体ひとつひとつにある飼い主の思いの行き場はどうなるのだろうか。
折り鶴やアクセと共に山中に捨てられた犬の亡骸を思うと、たまらない気持ちになる。
悔しくて悔しくて、たまらない。