忙しくてなかなかプレイできなかったゲームを、やっと再開した。
それでもしばらく離れていたからか、「ゲームのない生活」に慣れてきたようで、ペースは下がっている。
これも一種の中毒だったのだろうか。
だとしても、やめる気はないのだが。
とは言え、まだしばらく忙しい日は続きそうだ。
そんな中ゲームなどやっていると、さすがに「こんなことをやってる場合じゃないのでは・・・」という気持ちになってくるのだ。
やるべきことは、山ほどある。
何だかとてつもなく無駄な時間を過ごしているような気がして、私はこの後ろめたさの原因をふと考えてみたのであった。
単純に、やるべきことの優先順位が違っているということがひとつ。
それは承知だ。
しかし私は「ゲーム」を習慣のひとつとして、これまでのように、生活に取り戻したかったのである。
なのになんなんだ、この罪悪感は。
ダンナが後ろでギターの練習などしていると、正直本当に恥ずかしい。
一体自分は何をやってるんだ。
いやいや、何がそんなに後ろめたいのか。これは私の趣味だ。趣味の時間なのだ。
ゲームが趣味として恥じるべきことだからなのか?
正直、ちょっと恥ずかしくはある。
ならばその羞恥心は、どこから来るのだろうか?
下らない。
もうすぐ50にもなろう人間が、2次元のキャラクターを操って、架空の世界で必殺技など出して、ありえないモンスターを倒すのだ。
そこに「快楽」以外の意味はない。
えーっ!?ないのかEE:AEB64
何かないかEE:AEB2F
反射神経とかEE:AE5B1
それぐらいしか思いつかんEE:AE5B1
しかし、趣味とはそういうものではないのか。
何かを楽しむのに、学びや意義がなくてはいけないのか?
例えば昔はマンガやテレビばっかり見てるとバカになるなどと言われたものだ。それでもそれですらものによっては、そっちの方がいくばくかの実りがありそうである。
ゲームは趣味界の底辺なのか??
例えば映画鑑賞。
ただボーッと座ってるだけで、ワクワクしたりハラハラしたりホロリとしたりさせられ、非常に受動的でその場限りのものである。
コレクション。
ただただ集めるだけである。時間ばかりでなく、金もかかるなかなかな無駄っぷり。
パチンコ。
金と時間のかかりっぷりがハンパなく、生活基盤すら揺るがしかねない恐ろしいものだ。悪いがこれよりはマシだろう。現状では。
それでもなぜか、「趣味・映画鑑賞」「趣味・切手収集」などの響きは、「趣味・テレビゲーム」に比べて至ってまともに響く。
同じ無駄でも、なぜここが違ってくるのか?
例えば、映画鑑賞が趣味の人には、映画の知識がたくさん詰まっている。
語れることがたくさんある。それはひとつの「知識」と言ってもいいだろう。
切手収集なら、そのコレクションが人を感動させるかもしれない。その圧倒的な量や種類は、驚きを与えることができるだろう。
私かてゲームに関しては、やった分だけの知識はある。おすすめのソフトを教えてくださいと言われれば、簡単にいくつか挙げることができるつもりだ。
それなのに、なんなんだ、この低級さは。誰が感心する??
やはりゲームは無駄でしかなく、後ろめたく恥じ入ってやるべき趣味なのだろうか?
思いつく限りでは、パチンコ以外に勝ち目がない。
精神衛生上良くないので、「やるべきこと」をサッサと済ませてしまおうと思う。