酔っていたのだ。
カラオケボックスで3時間。だいたいふたりでワイン2本だ。すでに酔ってからの思い付きなので、カラオケボックスを出る頃にはベロンベロンである。
会計を済ませ、4階からエレベーターに乗る。
壁に虫が貼り付いていた。
エレベーターに、虫。
虫の生活拠点は、このような無機質な個室ではないはずだ。
そして本人にそのような自覚もなく、ただ紛れ込んでいるのである。ここを出たい、出なくては、などという発想はないだろう。
ここに彼の生命を支えるものは何もない。偶然飛び出さない限り、この虫はここで人生を終えることになる。
不幸だ。
私は酔っていたのである。少しのことで感情は高ぶる。
そして無敵であった。こいつを救わねば。正義感も高ぶる。
しかし何の虫かね、これは。
「カメムシだね。」ダンナが言った。か、カメムシ。
危険を感じると猛烈な臭いを発するという。私はその臭いをまだ嗅いだことがない。
ネットの動画でカメムシにちょっかいを出した猫が顔をしかめているものを、何度か見たことがある。
難易度高いぞ。
しかしそういうことほど、挑みたくなるのが酔っ払いなのである。
エレベーターが1階に着くと私はそのカメムシを軽く手で包み、外へと逃がしてやった。
あぁ、なんて気分が良いのでしょう。正義とは、自分のためにあるのだろうか。善行に酔いしれるための。
そしてその手を嗅いでみる。
助けてやったにも関わらず、カメムシは危険を感じたのだろう。凄まじいにおいが手に染みついていた。しかし。
え?
「むしろいい匂いじゃない!?」
どこかで嗅いだような匂いでもあった。それは香水とか芳香剤とかいった類に感じられたが、ダンナは臭いと言って逃げ回った。
いやいや、「カメムシ=臭い」という刷り込みじゃないのかそれは。百歩譲って臭かったとしても、逃げるほどじゃなかろうに。
家に帰るまで、私はその懐かしいような新鮮な香りを何度も嗅いだ。良し悪しとは別に、強烈ではある。鮮明で、衰えを知らない。強い香りだ。
翌日にはたいがい忘れ果てている酔夜のことも、匂いによって思い出すことができたのだ。
カメムシ素手で掴んだのか。
忘れていたかった。