「そうだね」と言うことにした。
日々、物忘れが進んでいる父である。
どこまでが年齢的なものでどこからが認知症的なものか、私には分からない。
病院もサポートも本人が嫌がるので見守り体制だが、日々進行しているのだ。この流れが止められないなら、どこかで決断しなきゃならない時が来るだろう。何の決断?分からない。何だかとてつもなく大変なことが待っているような気がしている。
「オレ、頭がバカになっちゃって」父は言う。
さっき言ったことをもう間違えている。やりたいことを思う通りでできない。本人にはストレスと不安が大きいことだと思う。なので「大丈夫」「そんなことない」というような言葉で返して来たが、もう無力だ。大丈夫なんかじゃないことは明白なのである。こんな言葉は何をも救いはしない。
そして気づいたが、むしろ「そうじゃないんだよ」「誰も分かってくれない」という疎外感を産んでいたかもしれない。
気休めの「大丈夫」よりも、「そうだね」の共感、「それならこうすればいいよ」というのが本当の「大丈夫」なのではないか。
「バカになっちゃって」を肯定するとこは、現実を突きつけることになる。
でも曖昧に気休めを言ったところで、何も変わらないのだ。変わっていく状況に対して、どんどん置いて行かれてしまう。
もう気休めはやめた。
「そうだね。」
酷なようだけど、まやかしよりマシなはずだ。
安心できるような現実を、作っていこうと思う。