「お母さんがな、しっかりお前をコントロールしなかったから、お前はこんなになったんだ。」
すいませんね、こんなんで。
相変らず愚痴っぽい父である。
どうしてこう、そっちの方へ行きたがるのだろう?
さりげなく別の方向へ修正しようとしても、引力に従うが如く戻されてしまう。
言いたくて仕方がないのだ。
後悔。
そしてそれは自分の悔いではなく、他者に向けられたものばかりだ。あいつが。あの野郎が。
反抗心から自堕落に生きるようになった。
勉強をしない、というのは最も効果的な反発だ。
言うことも聞かなかった。
結果、学歴も技術もなく、この歳になった。それを悔いているのである、父が。
いや、父自身が悔いているのならまだ救いがある。寄り添えるが、母が悪いと言い出したのだ。
挙句私を「こんなん」呼ばわりである。
棒だ。棒になろう。私は棒です。何も感じません。そこにいるだけでーす。
お医者さん、店員、昔の会社の上司、部下、親戚、隣人。不満だらけだ。
「あの野郎」が「あの女」は、と延々愚痴を垂れ流す。
そんな話をするよりも、楽しい話をした方がよっぽど自分のためになるのに、「あいつら許すまじ」「忘れてなるものか」とばかりに何度でも言うのである。
幸せな時間よりも、不幸な時間を選んでいることに気付いていない。
可哀相な人だと思う。
歳を取って色んなことができなくなり、色んなことを忘れていき、人は変わっていく。
いや、戻っていくと言うのか。
その人の持つ、核の部分が残されるのではないだろうか。
父の場合、「プライド」だ。
思い通りに行かなかったことが、父の尊厳を傷つけているのである。
「俺が」という主語しか持たないから、他者へと思いが及ばない。
上手くいけば満足、いかなければ「お前が悪い」。
人生の最終章でなお、そんなことばかりが残されているのである。
もちろん、「プライド」にもいい部分があるにはある。
自分で出来ることは極力自力で頑張ろうとする。
私が帰る時は必ずエントランスまで下りて見送る。
お金で甘えることはない。
この辺は、見事なまでに徹底している。これはプライドが見せる良い部分かもしれない。
それでも、そんなものを手放してしまえばもっと楽になるのにと、もっと違うものが見えてくるのに、と思わずにはいられない。
反論すれば、より父を不幸にする。結局愚痴を聞いて「それは酷いね」と寄りそうことが、父の幸せなのだろうか。
不幸な幸せではないのか。
私も少しずつ、色んなものを失っていくだろう。
最後に自分の核として残るものは何か。
それは小さな一粒の宝石のようなものであって欲しいと、切に願う。